2023年6月 9日 (金)

ウェスト・サマセット鉄道 その1

4年ぶりの英国とマン島 その11の1、the West Sommerset Railway

この鉄道はイングランドで最長の路線を持つ標準機の保存鉄道Heritage Railwayで、ナショナルレイルとの境界(但し駅は無い)から海辺(ブリストル海峡)の町Mineheadマインヘッドまで22.75 マイル(36.61 km)ある。ただし常時運轉されるのは境界から方面(北西)へ3マイルのBishops Lydeardビショップス・リディヤードとMineheadの間である。イヴェントなどではBishops Lydeardの南東2マイルのところにあるNorton Fitzwarrenノートン・フィッツウォーレンまで運轉されることもある。Norton Fitzwarrenは三角線上にあるので、ここまで運轉したときはカマの方向を変えることが可能である。さらに本線(ナショナルレイル)直通列車を走らせることもある

1862年にWest Sommerset Railway(当時)がTauntonトーントンとWachetウォチェット間を開業した。

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現在のWachet駅である。今や単に相対式ホームがあるだけだが、跨線橋の向こうに見える煉瓦建物は元貨物建屋(現在はWachet Boat Museumに轉用)でその東側の現在駐車場になっているあたりにも線路があったと考えられる。また本屋(画面右)の手前の駐車場あたりも短い側線などがあったのだろう。

Tauntonは上述の境界の東、2マイル強にある本線(後述の当時のBristol and Exeter RailwayB&ER)、現在はナショナルレイル)上の主要駅であり、保存鉄道として再開した区間には含まれない。さらに74年にMinehead RailwayWachetからMineheadまでを開業した。当初はブルネルの広軌7ft1/4in(2,140mm)で建設されたが82年に標準軌に改軌された。早くから、そしてMinehead Railwayは完成直後からB&ERにリースされ、一体で運轉されていた。76年にB&ERが、97年にMinehead RailwayGreat Western RailwayGWR)に吸収されたが、West Sommerset Railway1921年まで独立の存在(但し運営はGWR)であった。
1948年にGWRは他の三大鉄道とともに国有化された。

この路線の廃止は1973年であったが、71年にはすでに保存(再開)に向けての動きが始まり、76年には最初の区間の再開に至っている。Somerset County Council、つまり地元自治体の所有で、West Somerset Railway Public Limited Company の運営という形態である。地元の意向や支持によって距離の長い保存鉄道Heritage Railwayが可能となったと考えてよいだろう。

この鉄道も以前に訪問したことがあるが、ごく部分的なものであり、このブログに書いたり所属する海外鉄道研究会で報告したりしたことは今までなかった。Lynton and Barnstaple Ryリントン・アンド・バーンスタプル鉄道の撮影に行くときに、この鉄道を利用して全線を観察することを検討したこともあるが、終点のMineheadに到着してからのバス接続が不可能ではないもののあまりにも非効率(恰も大部分を戾るかのような大廻り)で諦めた。それで此処でもMさんが事前検討で探し出した地点での撮影である。

現在所属する機関車は稼働状態、オーヴァホール中あわせて9輌と考えられる。(すみません完全には追跡できていません)また、下述のようなvisiting engineの訪問も多い。

撮影した地点を2回に分けてMinehead側からご紹介しよう
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Wachet Doniford Haltにて、特別運轉の貨物列車
窓の開く客車だと参加者が顔、カメラをだして、ぶち壊しになることがあるので、貨物列車はありがたい。(参加費用を出して客レに乗るわけでもない奴は勝手なことぬかすな!)
カマはGWR9400クラス、0-6-0PT(パニアタンク)の9466Robert Stephenson and Hawthorns  7617/1952である。

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Norton Fitzwarren Bishops Lydeardにて、GWR 5101クラス2-6-2Tの 5199
GWR  Swindon Works 1929–49年に9回にわたって計140輌が建造された。
当機は  ?/1934である (製造番号は調べきれなかった)

GWR5101クラスは1903-06年に製造されたGWR3100/5100クラス(当初3100のち5100に改番、計40輌)の後継改良型である。なお5101の最初期製造のは5100の空き番を埋める形での附番でヤヤコシイ。また100輌を越えているので、後期のは4100番台に下がっての附番である。Large Prairieと呼ばれたが中型機で、都市近郊およびローカル旅客用としての設計であるが、貨物にも当然使用された。さらに第二次大戦後の自家用車の普及や気動車への置き換えでそういった仕業が減ると本線の補機運用などに轉用されていった。

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同じ地点、GWR 7800クラス(Manorクラス)4-6-07812Swindon Works 1939年製、これも製番は調べきれなかった。Erlestoke Manorの名を持つ。Severn Valley 鉄道に常駐していて、ここにはvisiting engine(定訳は無いと思うが訪問機という訳で良いか)である。

つづく

あまらぼ鍋屋町

2023年6月 5日 (月)

またまたウェルシュ・ハイランド鉄道

4年ぶりの英国とマン島 その10the Welsh Highland Railway

ウェイルズ語ではRheilffordd Eryriレイルフォルズ・エラリ、あるいはRheilffordd Ucheldir Cymruレイルフォルズ・イヘルディル・カムリという。ただし、元のWelsh Highland Railway (この鉄道単体としては、今のこの観光鉄道ほどの規模には至っていなかった)には公式のウェイルズ語名はなかった。
EryriSnowdoniaのウェイルズ語名であるが、語源についてはLand of Eagles鷹の地とする説と羅甸語のoriri(登る、上る)からとする説がある。Ucheldirは高い土地つまりhighlandであり、Cymruはウェイルズである。*

なおウェイルズWalesは、古英語(アングロ・サクソン語)でアングロ・サクソン人以外〈異邦人あるいは外国人〉を指す語である「ウェラス(Welas)」に由来している。まあ失礼なはなしではある。その罪滅ぼしか、逆に征服をを誇示するためか(<無精せんと調べろ!)、英国(連合王国)の皇太子はPrince of Walesと称する。一方カムリCymruは人民、同胞の意とのことで、これと同様なものも世界各地によくあり、アイヌの本来の意味(語義)とされる“アイヌ=人間”もそうである。

この鉄道についても以前数回に分けて写真をあげて書いたことがある。ウェイルズの北西部、アングルシー島との狭い海峡(メナイ海峡)の東岸の Caernarfon(カエルナルヴォン、英語話者は大抵カーナーヴォンと発音する)からPorthmadog ポルスマドグまでの25マイル(40.2 km)の1 ft 11+1⁄2 in (597 mm)のナロー保存鉄道/観光鉄道である。

現在は、その7で書いたフェスティニオグ鉄道と一体で経営されている。
しかし路線の様子は大きく異なる。Ffestiniog鉄道の場合は列車に乗って行って駅間はパブリックフットパスを步いてという撮影が可能で、ペーパドライヴァの小生はそのやり方で撮影したことが何度かある。車を使うと駐車した位置まで撮影後に戻らなければならないが、列車利用の場合は当然ながら他の駅まで步いて進んでしまうことが可能で、却って便利なことも多い。一方このWelsh Highland Railwayでは撮影用のチャータ列車なら兎も角、通常の運轉時は車がなければ非常に非効率なものとなる。

車を降りて少し步かなければならないが、サミット極近のお立ち台はMさんは初めてであったので再訪した。前回とは大きく違うアングルのだけご覧いただこう。
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駅間で言えば Rhyd Dduリッド・ズィー➟ Snowdon Rangerである。(Rhyd Dduがサミットの駅であるが、路線最高地点は少し南にある)

この鉄道で使われるのは、特別な列車を除き南アフリカで使われていたガーラットであることが殆どである。このカマ87号機もそうでNGG16型、車輪配置 2-6-2+2-6-2 Cockerill(白耳義)3267/1937である。  キャブ側のテンダーSAR、組合わせて(Aを共用して)縦にSASと書いてあるのは、それぞれ英語のSouth African Railway、アフリカーンスのSuid Afrikaanse Spoorweë の頭文字である。
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アフリカーンスはオランダ語から派生した言語で、文法構造が簡略化され、他言語の要素が入っている。正書法の変遷が目まぐるしく機関車の鉄道名表記についても別の綴りであった時代もある。

Caernarfonの近くなど路線の北部は車ではやりにくく、どうしてもとこだわるほどの撮影地は思いつかなかったので、あとは結局は道路沿いでの撮影となった。

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Snowdon Ranger  から Plas-y-Nant プラサナントへ下っていく
機関車は143号機 同じく元南アフリカ国鉄 NGG16 ガーラット2-6-2+2-6-2 Beyer, Peacock and Company 7868 /1958である。ベイヤー・ピーコックが製造した最後の機関車(のバッチのうちの1)である。
ボイラ交換を終え、昨年動態に復帰したばかりである。

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交換列車があるわけではないが、Waunfawrワインヴァウルで暫く停まった。後ろに見えるのはSnowdon山であるが、タイミング悪く山頂に雲が掛かってしまった。

本旅行でのブリテン島の保存鉄道、次回最終回はイングランドへ戾ります

あまらぼ鍋屋町

2023年5月28日 (日)

グレイト・オーム軌道

4年ぶりの英国とマン島 その9、the Great Orme Tramway

ウェイルズ語ではTramffordd y Gogarth トラムフォルズ・ア・ゴガルスである。
Llandudnoサンディドノの街から、その名の由来 Great Orme y Gogarth)と呼ばれる台地に登る3ft6in軌間のケーブルトラム*1、鋼索線である。
1:日本でよく使われる名称はケーブルカーであるが、英語では(特に鉄は絶対に)funicularフュニクキュラという。Cable Carはサンフランシスコのものが有名であるが、これは逆にFunicularとは言わない。(#1文末、及び#2文末)

サンフランシスコのケイブルカーは、道路下にケイブルを循環させ、レイル上の車輛に乗っている乗務員(グリップマン)が床を貫通しているグリップを操作して、そのケイブルを掴ませて車輛を動かす。離すと止まる。車輌に設置されている制動装置も操作するのは言うまでもない。このような循環式のものは現在日本には存在しないが、循環式であるものは横浜博覧会で一時期設置された。車輛とは言い難いベンチ状のものだったようだが小生は見ていない。
一方、日本でよく見られるケイブルカーはケイブルの両端に車輛を固定結合し、軌道の最上部にある巻上装置の大きな輪でこのケイブルを駆動する。片方の車輛は最下部の駅から上へ、もう片方は最上部の駅から下へ同時に動き、中間点ですれ違いをさせる。
(例外的に1輌のみを上下させる方式のものも日本にも存在する)

このGreat Orme Tramwayは全長約1マイル(1500m餘)であるが、ほぼ同じ長の2つの部分(下部800m、上部750m)に分かれている。運開は下部が1902年、上部が1903年で、以来運轉を継続していて、廃止・復活保存という一般的な保存鉄道の経緯は辿っていない。もっとも1932年に脱線大事故を起こし2年ほど運休したことがある。その事故が関係するのかどうか不明だが1932年に Great Orme Railwayと改称されたが、77年にTramwayに戾されている
一つの連続した軌道で建設されなかったのは、かなり曲線が多いことと、下部の方が勾配が急であるることによるものであろう。最急勾配は下部が1 3.8 (26.15%)、上部は1対1010%)である。(それぞれ270‰、107.5‰のデータもある。)
鋼索線は一定の勾配がとれない場合は、上部が下部に比べて急な方がどちらかと言えば安全で、運轉制御もやり易いだろう。

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下部の軌道は街中にあるVictoria 駅から出ている。Victoriaと附く地名、駅も含めて各種施設名は英国に矢鱈多いが、このVictoriaは此処にあったホテルの名に基づくとのことである。

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ここから出ていく路線はケーブルカーであるにもかかわらず、路面を走行している。しかも道路が極端に狭いため単線である。残念ながら駅を出入したり、この狭い道を走行したりする車輛を撮れる時間帯は過ぎていた。

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中間点の行き違い部、英語ではこれはpassing loopと呼んでいる。(#3文末)
日本の民鉄ではターンアウトと呼んでいるところもある。鉄道模型では(単に)分岐のことをこう呼ぶことが多いので、これには少々驚いた。

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Passing Loopの少し先(上)であるが、Kashmiri goatsと呼ばれる羊がウロウロしている。毛を採るために導入されたのだが、19世紀から野生化していて、今は200頭ほど居るらしい。

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併用軌道であるためであろう、車輛の足回りは簡易な覆いが施されている。

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Passing Loopから上は道路に多少餘裕があるためか、ガントレット(Gauntlet、ゴーントレット:#4文末)になっている。レイルなどの装置部品の量が多くなっても単線にしてしまうよりは何かと便利だろう。車利用者は逆に気兼ねなく通れる部分を少しでも拡げてほしいだろうが。

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乗換えの中間駅、その名もHalfway Stationの先の上部の軌道である。今回はざっと撮影しただけで乗らなかったがHalfway Station内部では巻上装置がガラス越しに見え(建物は2001年改築で新しい)、構造や歴史を説明したパネルなどもあるそうだ。おカマ趣味(=蒸機優先)なので次の機会がいつになるか分からないが、一度は乗りたいものだ。

ほぼ同じ地点から逆方向を見る。
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このようにレイルもケイブルも剝き出しで、一見して日本で見るものと大差がないように思える。

ちょっと分かりにくいが、これは山頂方向を見あげての撮影である*。画面中央左寄りに登っていく車輛があるが、さらに左に下ってくる車輛もかすかに見える。即ちここはPassing Loopより麓側で、両方の車輛は撮影地点より山側にある。しかし、足下にはケイブルが2本(理窟を言えば一本の二つの部分だが)見える。これは巻上装置が麓側つまり中間駅(Halfway Station)にあることによる。ケイブルは円環状になっていて、山頂側ではケイブルをかける輪(deflection sleeveと称している)が置かれているが、動力を与えているわけではない。
*:写真の拙さを天候の所為にするのはミットモナイが、霧が出てきてPassing Loopを見下ろす位置からや附近での撮影を諦めたのである。

下部の軌道の巻上装置は当然ながら上部用と同じHalfway Stationのところにある。
巻上装置の動力は下部の軌道用がEnglish Electric125 hp電動機、ケイブルはインチ
上部の軌道用は同じく75hp電動機、ケイブルは7/8インチ であり、勾配の差から両者にかなりの違いがみられる。
また巻上装置は当初は蒸気動力によるものであった。この写真と仕様についてはまだ探し出せていない。ボイラはコークス炉であったとのことだがそれ以外は分からない。何か見つけたら補足するつもりであるが、ご存知の方がいらっしゃったらご教示を頂けたら幸いである。
電化!?すなわち現在の電動機などが導入されたのは50年代とのことである。

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上部の軌道用車輛は下部用と全く同じ仕様のものであるが、足廻りの覆いはされておらず台車などはハッキリ見える。
6/9追記:後ろに見える支柱と架空線はLlandudno Cable Car サンディッドノ・ケイブルカーのものである。ケイブルカーという名称だが日本で言うロープウェイである。ヤヤコシイ。英語ではAerial Tramway、Aerial Cablewayなど各種の呼び方があるが、単にRopewayとしたものは小生は見たことが無い。あるいは独逸語のSeilbahnの訳なのだろうか。
また、写真は支柱がよく見えるものに入れ替えたが、ゴンドラ?箱?は訪問時には見られなかった。

さて下部の軌道のものもそうだが車輛にはなんとポールが附いている。何処かの路面電車を電装解除して使用しているのか?あるいは室内照明の為の給電用か?と思ったがそうではなく、車輛と運轉者(=巻上装置部)の間の通信連絡用であった。のち90年代に無線に切換えられ、架線は撤去されたが、ポールは何故かそのままとなっているのである。架線がなくポールだけ(パンタグラフだけ)なのは一昔前のズボラな模型レイアウトみたいだ。

4号車    St Tudno            下部軌道で使用
5号車    St Silio        同
6号車    St Seiriol     上部軌道で使用
7号車    St Trillo      同
全長37ft、建造はおそらく全て1902年であろうが、上部の軌道が1903年運開のためか 6,7について1903年としている文献もある。また各車につけられているのは全てこの地に関連する聖人の名である。
スコットランドのMotherwellにあった Hurst Nelsonの製造である。トラム、地下鉄車輛などの保存車輛はかなりあるようだが、現在運轉されている車輛はこの4輌だけらしい。
なお、1-3号車は16ft7inの2軸貨車で、製造は同じく02年であったが、11年までには廃用となった。

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山頂駅の少し手前である。上部の軌道はPassing Loopの上(山頂側)も単線になっている。ゴーントレットにしなかったのは、斜面を平に切り開く面積を小さくするためであろうか。

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山頂駅である。

漢語(所謂中国語)で喋るカップルが矢鱈ウロウロしながらポートレイト撮影を続けていて、駅舎をスッキリ撮れたのは彼らが乗って降りて行ったあとであったのを最後にボヤいておこう。しかし彼らは何故あんな如何にもの気取ったポーズで撮影する(してもらう)のが好きなのだろう?漢族の女性と結婚したある日本人鉄も笑いながらこぼしていた。

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山頂駅の脇にこんなものがあった。一般的なケーブルカーの車輪は片輪が両フランジ、反対側の輪は幅広のフランジレスであるが、これは左右とも内側片フランジの通常の車輪である。断面形状は普通のものより踏面が平ら(テーパーがあまりない)で、フランジが急峻なように見える。また横に立てかけてあるのは前述のdeflection sleeveではないかと思う。

<脱線、餘談>
#1:音痴の小生でもメロディーをだいたい覚えている有名なフニクリ・フニクラ(Funiculì, Funiculà)の歌は1880年に伊太利のFunicolare Vesuvianaヴェズヴィアナ鋼索線の為に作られた、(おそらくは世界最初の)コマーシャルソングであることは鉄ならご存知のことだろう。そしてリヒャルト・シュトラウスRichard Georg Straussやリムスキー=コルサコフ Николай Андреевич Римский-Корсаков(ニコライ・アンドレエヴィチ・~)がナポリ民謡と勘違いしてしまったことも。
なお歌詞はナポリ語なので、(標準)伊太利語とは大きく異なる。
(さらに脱線)鉄道が出てくる歌といえば、日本では昭和初期に東京行進曲(作詞:西条八十,作曲:中山晋平)が流行って、「いっそ小田急で逃げましょか」で小田急も有名になったそうだ。ただ、フニクリ・フニクラは情熱的なラブソング、派手で陽気なメロディーで男が歌い、東京行進曲は如何にも日本的メロディーで女が歌うという違いは大きいように思う。
(6/9追記)残念ながらこのヴェスヴィアナ鋼索線はヴェスヴィオ火山噴火により1944年に廃止となった。

#2:Funicularはラテン語起源の語である。手元の辞書を見ると
fūnis”  縄、綱
fūniculus” 細いひも、(解剖学で)索、帯、束 (以降省略)
とある。(研究社 羅和辞典)
またCableは仏蘭西語から入った語だが、これもさらに遡ると後期ラテン語capulumが起源のようだ。手元にある上述の辞典は小型のもので古ラテン語および古典ラテン語を中心としているとのことで、この語capulus<capulum)の語義は別のものが記載されている。

#3:以前書いたことがあるが、日本語でいうループ線、例えば北陸線の鳩原(はつはら)や上越線の清水トンネルなどは英語ではSpiralと呼ぶ。キチンと輪になって元に繋がっているのがループ、高低差があるのは假令一重でもスパイラルである。日本ではなんとなく何回も廻っていないとスパイラルと感じないのかもしれないが(小生だけの勘違いか?)

#4:実際の発音はオの長音なのに、日本語ではアで代用されている。日常的な語の例としてはランドリー(laundry、英発音はローンドリー、洗濯屋あるいは洗濯物)がある。しかし同根の動詞launderから作ったlaundering(ローンダリング)はオの短音で代用されて、ロンダリングである。マネーロンダリングくらいしか日本では一般的には使わないが。 
なお、米ではガーントレットの発音もありと辞書にあるが小生は耳にしたことはない。

(さらに脱線)日本語は母音の長短で単語を区別する、例えばオバサンとオバーサン*と言った具合だ。にもかかわらず外来語になると途端にその長短を無視、大抵は長音を短音化するのは面白い現象である。
*但し、お婆さん を假名書きする必要がある時は おばあさん が普通であるが、実際の発音はアの重ね(アア、二重)とアの長音(アー)の2種の間で揺れがある。地域差、個人差、場面による差(強調して発音する時と気楽に発音する時の差など)がある。

あまらぼ鍋屋町 

2023年5月25日 (木)

サンベリス・レイク鉄道

4年ぶりの英国とマン島 その8、the Llanberis Lake Railway

ウェイルズ語ではRheilffordd Llyn Padarnレイルフォルズ・シン・パダールンである。
Llyn Padarnサンベリス湖の北岸を走る597mm1 ft 11+1⁄2 in)軌間、路線長2.5マイル(4km)の保存鉄道である。

列車は現在は中間駅となった(71年の運轉開始当初は終端駅)Gilfach Dduギルヴァッフ・ジーからバンカーファーストで一旦Llanberisサンベリス*まで運轉され、そこで機廻しをしてチムニーファーストで折返し、Penllynペンシンまで運轉される。PenllynからはまたバンカーファーストになりGilfach Dduに戾る。
*Llanberisの駅は、Snowdon Railwayの麓の駅、同名のLlanberis駅のすぐ近くである。

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Gilfach DduからLlanberisへバンカーファーストで発車する。

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Llyn Padarnの北岸をチムニーファーストでPenllynに向かう

線路敷きは廃線となったPadarn Railway の跡を利用している。鉱山と港Port Dinorwic(ウェイルズ語Y Felinheli ア・ヴェリンヘリ)を結んでいたものだが、非常に珍しい4ft1219mm)軌間の鉄道であった。
2ftあるいは3ft軌間を採用しているナロー鉄道は非常に多いし、5ft軌間は露西亜及び周辺国で広く使われている。しかし4ftを使う鐡道がほとんどないというのは面白い現象だ。

この Padarn Railway で使われた蒸機にはBangor の Penrhyn Castleで静態保存されているものがあるが、現在一般的な蒸機の構造とはかなり異なっている。

この鉄道には現在3輌のカマが在籍し、いずれも可動状態とのことであるが、この日使われていたカマは3号機Dolbadarn Hunslet0-4-0ST 1430/1922 Dinorwic quarryで使われていたものである。
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 あまらぼ鍋屋町

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大幅な追記(5/25

書き洩らしたことがありますが、一つの記事にはできないのでここへ追記します。

まずthe Padarn Railwayの起点について、うっかり鉱山とだけ書いたがDinorwic quarry(発音はディノーウィッ“グ”、Dinorwigとも綴る)といい、1787年から1969年まで操業した。本記事最初の写真の緑の客車数台の背後に鉱山のインクラインthe Vivian transporter inclineが小さく見える。(他にもインクラインは数か所あった)

大きく撮った写真は次である。
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軌間は5ft6in1873年にでき、廃止後の1998年に修復されている。

また、the Padarn Railwayの前身は2ft軌間(現実には少し狭かったらしい)のthe Dinorwic Railwayであり、1824年建設で馬が使用された。直ぐに輸送力不足が問題になり、the Padarn Railway1848年開業した。廃止は1961年であった。

もう一点、Gilfach Ddu駅のすぐ近くにNational Slate Museumがある。
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ここにもHunsletのカマが一輌保存されているほか、英国の友人によると英国のスレイト産業を理解するためには是非見学すべきとのことであるので、次の機会を何とか作りたいと考えている。

あまらぼ鍋屋町

2023年5月17日 (水)

しつこくフェスティニオグ鉄道

4年ぶりの英国とマン島 その7、the Ffestiniog Railway

この鉄道は大のお気に入りの一つだ、これで何度目の訪問になるだろうか。今回の旅行第1部では、そもそもの目的Great Britain XVの撮影はもとより、空き時間などを利用した保存鉄道巡りも撮影場所選定など全てMさんに負んぶに抱っこであったが、ここだけは小生の案内での撮影であった。

まずは車で行きやすく、大俯瞰が楽しめるところにMさんをご案内した。、、、とエラソーに書きだしたが、訪英4年ぶりで、そもそも記憶力の悪い小生は駐車場から現地までの道は少々自信がなく、歩いている途中で居合わせた英国人ファンに念のために確認したほどだった。
ここの俯瞰は以前にもこのブログに載せたことがある。(the) Cobコブと呼ばれる堤防で、鉄道と道路もその上に建設された。その記事が最初だが、その後も俯瞰ではないが、いろいろな角度からア~でもないコ~でもないとしつこく撮っては載せている。

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今回の俯瞰は今までよりも左(南西)から撮影した。画面奥左外れにPorthmadogの駅(Porthmadog Harbour Sta)があり、画面右下外れ、というかこの丘の麓にBoston Lodge工場とほんの少し東に離れてBoston Lodge Halt がある。従って営業列車の走行区間としては Porthmadog Harbour Sta ➟ Boston Lodge Halt ということである。
ここへの道はパブリックフットパスとして整備され、開けた場所にベンチまで置かれていることに今回気がついた。前回訪問時にはこんなに開けた場所は無かったように記憶している。

こんな鉛筆轉がし写真ではわからないが、機関車はダブルフェアリーの10号機 Merddin Emrys である。1879年にBoston Lodge工場で製造されたものである。このカマについてさらに詳細は過去のこの記事に記載した。

なお、英国人ファンは必ず「ダブル」・フェアリーと呼ぶ。というのは「シングル」・フェアリーもあるからであり、この鉄道にはシングル・フェアリーも在籍していて時に運轉される。

パブリックフットパスはさらに続いているのでそれを進むと、この位置に出た
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こうなると、鉛筆轉がしならぬ爪楊枝轉がしである。もう少し進んでthe Cobをもっとサイドから撮りたかったが、その辺りは残念ながら立入禁止であった。

もう少しだけ拡大した写真を
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機関車は14号機 Lyd 2-6-2T 2010年 Boston Lodge 工場製である。この機関車はレプリカであり見かけは古典機であるが、最新技術がふんだんに取り入れられている。Lynton and Barnstaple Railwayに出張運轉した際の写真と若干の解説を此処にのせた。

撮影後、ダブルフェアリーが戾ってくるのを撮影するためにBraenau Ffestiniog方面に向かった。しかし、このLyd牽引の列車が次のMinfforddミンフォルズ駅でまだ止まっているのを見た。これはTan-y-Bwlchタナブルフまでの運轉である。同駅から1kmほど手前の築堤で撮影しようかとも思ったが、駐車場から撮影地まで歩く必要があるので駅進入で妥協した。
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信号は越えているので、撮影地点を駅間で表示をするのは本来おかしいのだが、Plas Halt Tan-y-Bwlchである。

ダブル・フェアリーの戾り列車は、Tanygrisiauタナグリシャイ ➟ Ddualltジアストにある逆勾配区間で撮影した。なぜこの逆勾配ができたのかについては過去の記事にそして更にもう一回書いた。

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前の煙!の左側、山の斜面に見えている筋は採掘したスレートを降ろす為のインクラインの跡である。この地方のナロー鉄道のほぼ全てと言ってよいが、スレート搬出を主目的に建設されたのである。

そして再度the Cobの俯瞰であるが、Porthmadog側から撮影した。
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このCobの上の間は、Ffestiniog鉄道の営業列車と廻送列車はもとより、一体的に経営されているWels Highland Railwayの廻送列車も通る(営業列車はPorthmadogから反対側に出ていく)のであるが、この日はWelsh Highland Railwayは営業しておらず廻送列車も無かった。

あまらぼ鍋屋町

2023年5月14日 (日)

サンゴセン鉄道

4年ぶりの英国とマン島 その6、Llangollen Railway

ウェイルズ語ではRheilffordd Llangollenレイルフォルズ・サンゴセンである。
前回ご紹介したBala Lake Railwayと同様に路線は1965年に廃止されたGreat Western Railway GWR)のRuabon–Barmouth 線(標準軌)の跡地を利用したものである。
Llangollenから Corwenコルウェン*までの10マイル(16km)の標準軌の保存鉄道で、全体がDee Valleyにあり両端の駅の間に3駅ある。残念ながらまだ乗車したことはないが、いずれも雰囲気の良さそうな駅のようだ。他に2,3あったHaltは今は廃用となっている。

廃止された路線を利用して保存鉄道を作ろうとしていたthe Flint and Deeside Railway Preservation Societyは、当初は他の路線を考えていたようだが、この路線に目をつけ75年のLlangollen駅(だけ)の再開に至った。その後路線を徐々に伸ばしていったが、資金不足などで再開の步みは遅かった。Carrogまで延伸されたのは96年であった。現在目標としている終着のCorwenについては現役時代の駅が地元企業に売却され轉用ずみという問題もあり、新しく駅を作る必要があった。その駅の開業は今年の豫定で、訪問時にはまだ準備中のようで「Corwen Project」とあった。
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使われている蒸機は年によって変動しているが、可動、保管、修理、オーヴァホールなど合わせて9輌程度あり、テンダー機、サイドタンク機、サドルタンク機、パニアタンク機と多彩である。

景色は良いが、スッキリと全編成が見えるような走行写真を撮れるところは少なく、Mさんが見つけたのは此処だった。
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Carrog ➟ Glyndyfrdwyグランダヴルドゥア

一度は乗車するなどして丁寧に路線観察すべきなのだろうが、それで場所を見つけてもレンタカーを駐める場所は限られていて難しそうだ。結局は撮影用チャータなどで鉄道用地内や私有地への立入許可を得ての撮影が効率的なのかもしれない。

 

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同じ列車をGlyndyfrdwy からBerwynベルウィン方面に発車するところで捉えることができた。

カマはWar Department Hunslet Austerity 0-6-0ST、入換用のサドルタンクの1つ3777/1952である。
Hunslet Austerity 0-6-0ST は今も多数が保存されている。入換機でなく本線用機関車の雰囲気に塗り替えられているものもあり、このカマもLNERthe London and North Eastern Railway)が75輌のAusterity 0-6-0ST を導入した時の分類、J94 Classの色・機番(当機は68030)に塗り替えられている。

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英国の踏切に今も見られるタイプである。一つづつ開けて、それで線路側を閉止していくという作業を4回繰り返す。
パキスタンの現役蒸機を撮りに行った時になんと一時間以上前!に踏切を閉じられ、まわり道を餘儀なくされたことを思い出した。

*:英語ならコーウェンと発音するが、ウェイルズ語ではこのような語ではrをしっかり発音する人が多い。

さてLlangollenはいままでに発表されている雑誌その他の日本語記事ではスランゴスレンと表記されているものが多く、サンゴセンとしているのは知る限り2つしかない。
そもそも英語話者でもこのllの音を誤解している人が居るし、さらに假名表記となると絶望的に難しい。
スラとかスレとの表記を始めた方にはそれなりの考え、理由があるのだが、結果として表れた形からは、sura(或はsula)、sure(或はsule)といった「違う音」をイメージされてしまう可能性が大きいだろう。
それならば、聞いた感じに割と近い「サ」や「セ」の方が良いのではと小生は考える。もちろんこう書くと元は単なる sa se と解されてしまう可能性は大いにある。しかし、英語の定冠詞 theもザ(あるいはジ)と表記するしかないのと同列ではなかろうか。 
但し、Google Mapなどに見られる「ランゴレン」は間違いと断じて良いと考える。

いずれもう少し丁寧な説明を試みるつもりである。それによって分かりやすくなるかどうかは心許ないが。

あまらぼ鍋屋町

2023年5月13日 (土)

バラ・レイク鉄道

4年ぶりの英国とマン島 その5、Bala Lake Railway 

ウェイルズ語では Rheilffordd Llyn Tegid レイルフォルズ・シン・テギッド と称する。ウェイルズ語は日本語や英語、漢語(所謂中国語)などと違い、修飾語が被修飾語の後に来る語順をとる。Rheilfforddが鉄道、Llynが湖の意で、Tegidが固有名である。
なお、この鉄道(保存鉄道)は“ウェイルズ語のみで登録された”最初の会社とのことである。

LlanuwchllynサニューフシンからBala (Penybont)まで4.5マイル(7.2km)の600mmゲージの保存鉄道である。
Penybontはウェイルズ語起源でペナボントと発音する。

路線は1965年に廃止されたGreat Western Railway GWR)のRuabon–Barmouth 線(標準軌)の跡地を利用したものである。なお一部区間の貨物運轉は68年まで行われ、軌道撤去が終わったのは69年であった。
次回ご紹介する豫定のLlangollen Railwayサンゴセン鉄道(標準軌)もこの跡地を利用している。

保存鉄道として72年にLlanuwchllyn から2.4kmの区間で運轉を開始した。順次運轉区間を拡大し、76年にはBala (Penybont)に至った。
この鉄道はハンスレットHunsletが北ウェイルズのスレイト産業用に製造した、ナローの鉱山用機関車を多数保有しており、LlanuwchllynLlanuwchllyn Heritage Centreと称するウェイルズの鉱山およびナロー鉄道に関する博物館がある。またBala側に於いても町中心迄乗入れる路線計画や新しい機関区建設計画などがある。

現在の保有蒸機数はHunslet(在Leedsの機関車メイカー)が5、他にPeckett(同在Bristol)、Avonside(同在Bristol)、Bagnall(同在Stafford)が各1である。Llanuwchllyn Heritage CentreにもHunslet1輌あり、Hunslet保有数は各保存鉄道中最大といわれる

ウェイルズの常として天気は良くなかったが走行写真を少し挙げておく
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Bryn Hynod Halt ブリン・ハノッド➟ Bala (Penybont)

当日運轉されていたのはGeorge B Hunslet 680/1898)であった。

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Glan Llyn Halt グラン・シン➟ Llangower サンゴウェル

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Pentrepiod Halt ➟ Llanuwchllyn

沿線の景色は良いものの、通常はこのような観光客車を使うために遊園地的で、写真的には今市どころか宇都宮であるが、ちゃんとした貨車を保有しているので往時の姿を再現可能であり、機会があればそれらを運轉する際に再訪したいものである。

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Llanuwchllynにて
友好的で線路へ降りての撮影や作業風景撮影もお願いすれば可能であった。

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給水、給炭を終えて機廻し Llanuwchllynにて

あまらぼ鍋屋町

2023年5月10日 (水)

ミッド・ハンツ鉄道

4年ぶりの英国とマン島 その4、Mid Hants Railway

The Mid Hants Railwayはハンプシャー州(この略称がハンツ)にありAlton駅からAlresford駅に至る10マイル(16km)の標準軌の路線である。保存鉄道としてはWatercress Lineという名を使用している。Watercressの標準和名はオランダガラシであるが、一般にはクレソン(佛語Cresson)の方が広く通用している。片假名語は嫌いだとエッラソーに言う小生も、恥かしながらこの標準和名は聞いたことあるけど、、、であった。その昔の現役時代はクレソンを倫敦などへ運んだとのことである。小海線のレタス・キャベツの輸送を思わせる、、、と言っても大阪からは小海線は行きにくく、小生はこれを撮影したことはないのだが。

この路線の最初はLSWRthe London & South Western Railway)がAltonWinchester を結ぶためにMid Hants 鉄道として1865年に開業したものである。1884年にはLSWRが買収した。
この路線はロンドンとSouthamptonサウスハンプトン間のバイパス路線として、また上述のように地域の産物の輸送に使われた他に軍の関係施設を多く有したAldershotオールダショットとSouthanptonの基地港の間の輸送にも重要であった。
乗客数の減少の他、連絡する本線の電化により通し運轉ができなくなっていたが、前回の記事で触れた1963年の“ビーチングの斧”は免れたものの1973年には廃止となった。
AlresfordからAltonの区間が75年に買い取られ、77年から順次運轉が再開され85年に保存鉄道として全区間運轉再開に至った。

路線の特徴としては全駅で交換可能なこと、駅の建物や施設に現役時のオリジナルだけではなく、他から移設されたものが多く加わり充実していることがあげられる。

Ropleyに車輛保守設備と庫がある。
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2階からガラス越しに保守修理工場の様子を見られるようになっているが、残念ながらガラスが汚く、この程度の写真しか撮れなかった。
青いキャブ下廻りとバンカー下部が見えているオーヴァホール中のカマは、元はHunslet Austerity 0-6-6ST 3781/1952であるが、London, Brighton and South Coast Railway (LB&SCR) E2 クラスのThomasに似せるために1994年に改造された。

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またその部屋や階段はごく小さな博物館のようになっていて、部屋では子供たちが遊べるようになっている。

保有蒸機の数も多く、動態のものが4輌,他所で保管中、オーヴァホールなどを受けているものが3輌,当鉄道で保管中、オーヴァホール中などが上述のトーマスを含め7輌ある。

以前の訪問では沿線でサイドヴューを撮影したが、今回は天候に恵まれなかったこともありAlresfordからやってくる列車のRopley駅進入を跨線橋から狙った。

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カマは30506 LSWRS15クラス 4-6-0である。LSWR Eastleigh Works */1920 (*製番は調べきれなかった)

S15クラスは総計45輌であるがLSWRCMEUrie設計の初期型とそれにSRCMEであったMaunselが(LSWRSRに合併されたのちに)スティームサーキットに改良を加え、かつ車輛限界を改良して低規格の路線にも入線できるようにした後期型(2回)がある。
当機は初期型である。

あまらぼ鍋屋町

2023年5月 8日 (月)

スワニッジ鉄道

4年ぶりの英国とマン島 その3、Swanage Railway

この鉄道はDorset (county、州と訳される) Warehamウェアラム(ここでBRと接続)からSwanageに至る9.5マイル(15.3km)の保存鉄道heritage railwayである。
路線は1885年に建設されたが、直ぐ翌年にLSWRthe London and South Western Railway)に併合されていて、運轉自体は最初からLSWRが行った。この地域を外れて建設された本線に繋ぐ目的があった。

観光特に海浜での餘暇をすごすことが盛んになった20世紀初頭には倫敦と直通列車も設定され、旅客輸送は増大していき最大であった1931年には13往復の列車がこの支線に設定された。
60年代には利用客は減少していたが、悪名高きビーチングレポート*への記載も逃れた。しかしながらその後の67年にはバス轉換が勧告され、それでは夏季の需要には対応できないという反対もあったものの、最終的には旅客輸送は721月に廃止となった。
*正式名称はThe Reshaping of British Railways(第一部は1963年)、俗にBeaching Reportという。さらには 本報告やそれに基づく廃止をBeaching Axe(ビーチングの斧)とも称する。Beachingは当時の国鉄総裁であり、本報告の著者である。

また、この地域the Isle of Purbeck*で産出するボール・クレイ(粒が細かく、高可塑性を有する沈積粘土)についてはさまざまな小規模な鉄道を鉱山で使ったり、港に運んだりしていたが、これを当路線を使って港に搬出するという構想はあまり進まなかった。
しかしながら、この路線に接続、載せ換えをおこなうものが2つあった。Furzebrook Railway Pike Brothers' Tramway**とも)とMiddlebere PlatewayMiddlebere Tramway**とも)である。ここでいうPlatewayとはフランジが車輪側ではなくプレイト(レイル)側にあったもので、動力として馬を使っていた。
 *パーベック“島”という名称であるが半島である。
 **Tramwayと称するが、この語の現代の一般的用法である“路面電車”の意ではない。
1972年の旅客営業廃止後もこれらの輸送は続き、78年には原油輸送の為の側線建設などがあった。

保存団体はすぐに72年に設立されたが、当局や地元は少なくとも当初は非協力的と言ってよいほどで、BRがレイルやバラストの撤去に着手したり、スワニッジの駅舎解体を始めたりと言った具合であった。1979年にごく短い部分が再開したが、今のような形で運轉ができるようになるには時間がかかり、2009年のことであった。

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Swanage駅外観(上)および駅構内(下)

所有の蒸機は現時点で動態のものが3輌、修理中などが6輌、その他保管中2輌程度と思われる。(すみません、フォローしきれていません)また多量の客車も保有している。
当鉄道の工場はスワニッジ近郊のHerstonにあるが、なんと路線が繋がっておらず、搬入搬出には道路輸送が必要である。工場への支線建設の為の用地確保ができなかったためとのことである。地図で見ると終点Swanageの次(西)にあるリクエストストップ Herston Halt の南西約300m(直線距離で)に大きな建物があるので、それではないかと思われる。線路との間は市街地ではなく、農場或いは牧草地のようだが。

また路線の特徴と云ふか、撮影上の留意事項としては、アップダウンが何度か繰り返されるということがある。見えている周囲の丘や道路とは必ずしも沿わないので、初めての訪問の場合は地形図を確認するか、現地の勾配標に留意した方が良いだろう。煙モクモクだけが蒸機の魅力ではないが。
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いずれも撮影区間はHarmans Cross Corfe Castle である。

カマはSR U クラス、2-6-0   NO. 31806SR時代は1806)である。1926年にBrighton WorksKクラス2-6-4Tとして製造されたが、1928年に改造された。Kクラスは動揺が大きく1927年に “River Torridge” A806 が 13人死亡の大事故を起こし、20輌全てが運用から外されUクラスに改造されたのである。
当機は1981年から2014年までMid Hants鉄道で使われた後、当鉄道に移った。現在Kクラス改造のUクラスとして残る唯一のものである。

今回訪問では天気には全く恵まれず、今までに撮影した時とはカマの方向が逆だったのだが、これを利用しての路線の名所と言えるCorfe Castleコーフ城を入れて、あるいは逆に城から見下ろしての撮影はのぞむべくもなかった。

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2023年5月 6日 (土)

スパ・ヴァレー鉄道 (4年ぶりの英国とマン島 その2)

The Spa Valley RailwayTurnbridge Wells駅からEridge駅に至る5.5マイル(8.9km)の標準軌の路線である。両端の駅でBRに連絡している。この区間もBR路線であったが、ご多分に漏れず乗客数が減少していた。軌道と信号システムの更新が必要になったことで1985年に廃止された。   しかしすぐにHeritage Railway保存鉄道として再開の動きが始まり、1996年に部分的な運轉再開に至り、翌年にはGroombridgeまで延長され本格的な運轉を始めた。Groombridgeでは元の駅は個人の住宅になっていたので、新しい駅を建設している。2011年にはEridge まで運轉を延長した。
なお、Spa Valleyという地名(温泉谷?)があるのではなく、Royal Tunbridge WellsKent州の町)の“Spa townからHigh Weald の“valley”をずっと通っていることによる。

昨年2022年に“バトル・オブ・ブリテン”クラス(34072 257 Squadron‘)が当鉄道に来ていて当面此処で活躍する豫定である。他に動態、静態併せ7輌のカマが在籍しているはずである。
しかし、訪問時に運轉されていたのはこのDouglasであった。現在、通常はthe East Lancashire Railwayに居るカマで此処へ貸し出されている。少なくとも今年はSpa Valleyで使わるようだ。

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このカマは元は75041War Department用のサドルタンク0-6-0ST BarbaraHunslet 2890/1943)であった。保存に際して0-6-0のテンダー機に改造され、番号も2890に変更されDouglasと名附けられた(女➟男、性転換もした!?)。これは機関車トーマスの番組にあわせたもののようだ。また塗色も黒(NWR Black)となっている。テンダーの車輪が大きいのがおもしろい。(撮影は Groombridge ➟ High Rocks 間である)

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列車が来たタイミングで草原の上の方に居た牧場の少女が馬を呼んだので、小生の目の前からは居なくなって空の餌場が大きく写り込んだ変な画面になった。それに列車はディーゼル機関車を反対側に附けたトップ・アンド・テイル運轉*であったので、ディーゼル機関車を目立たないように、できれば隠したかったが、客車編成が短いので見えてしまっている。上の真横写真の線路反対側からの撮影である。

撮影は牧場の間の道路から行ったが、次の列車が来るまでレンタカーを止めて待っていたら「どうしたの?トラブル?」と訊ねられた。私道であったのか?人気の撮影地となり、撮影者が増えると“乗入れ、立入禁止”となっていくのはいずこの國も同様で、英国はこの点は特に厳重である。

(以前に何度か書いているが、新しく拙ブログをご覧になった方の為に)
*:日本の鉄道会社やファンはこれをプッシュプルと呼ぶが、英語ではこれは機関車の位置を附けかえずにそのまま前進も後進もさせる運轉方式のことで要注意である。独逸語ならPendelzugである。この列車も反対方向はディーゼル機関車がそのまま先頭(トップ)になり、蒸機はそのまま後尾(テイル)となる。

つづく

あまらぼ鍋屋町

(補足 5/7)
コメントを頂きましたので、単にそれにご返事するだけではなく、インサイドシリンダ機であることがもう少しわかりやすい写真を挙げておきます。駅撮りなどをする時間は無かったので、最初の写真の数秒前のカットの当該部を拡大しましたのでちょっと画質に問題ありですが。
こういうときには、カラーよりモノクロが適しているように思いますが如何でしょうか
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あまらぼ鍋屋町

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