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2017年6月

2017年6月26日 (月)

ヴェイル・オヴ・レイドル鉄道(その1)

寄り道が続きましたが、春に訪問したウェイルズのナロー鉄道に戻ります。

ヴェイル・オヴ・レイドル鉄道、英語ではthe Vale of Rheidol Railwayである。 “vale”はラテン語起源でフランス語のvalléeヴァレ(f)から英語に入ったもので、現在は詩語・雅語であり他にはこのように地名に用いるくらいである。一般的な語で言えばvalley(谷、谷間)である。

ウェイルズ語ではRheilffordd Cwm Rheidol(レイルフォルズ・クム・レイドル)、Rheilfforddは鉄道、Cwmは圏谷(カール)、小さな谷の意である。英語や日本語とは語順が逆で、修飾する語が後ろに来る。

路線はAberystwyth(ウェイルズ語の発音はアベラストゥウィス)からDevil’s Bridge(ウェイルズ語ではPontarfynachポンタルヴァナッフ)まで12マイル弱(約19km)、1ft11in 3/4603mm)ゲージである。シツコクこの旅行でも再訪したフェスティニオグ鉄道などは1ft11in 1/2であるが、それより1/4インチだけ広いという微妙さである。当初は1ft11in 1/2であったのを拡げたとのことである。

アベラストゥウィスはYstwythアウトゥウィスの河口の意であるが、Ystwyth川とRheidol川の合流点近くにある。この地方の行政中心であるとともに大学町でもある。ウェイルズの西海岸の真ん中より少し北にある。日本人にもよく知られた都市が周辺にないので言葉では説明しにくいが、バーミンガムからほぼ真西方向130kmほどである。

鉄道の歴史を見ると、1902年に貨物ついで旅客営業を開始している。レイドル谷の鉛鉱石や木材(坑道の支保材用)および旅客輸送が目的であった。1913年にCambrian Railwayに吸収され、22年には四大鉄道の一つGreat Western Railwayの一部となった。48年に国鉄British Railに引き継がれたが有名な(悪名高い)ビーチングの斧*は逃れ、68年にはBR最後の蒸機運転路線となった。

カンブリア線Cambrian Lineのアベラストゥウィスの駅はこれである。プラットホーム側と
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街の側。
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ただ、大抵のかつての立派な駅舎がそうであるように他の用途に利用されている。ここは現在パブ兼ホテルなどになっており、切符売り場などの駅機能はこの写真では写っていない右の方、即ち上の写真の左側建物に追いやられている。

アベラストゥウィスへのカンブリア線は行き止まりの形であるが、国鉄時代はカルマーザンCarmarthenへの路線がスイッチバックする形で出ていた。このカルマーザン線は1965年に廃止された。こちらはビーチングの斧*を逃れられなかったのである。

ヴェイル・オヴ・レイドル鉄道の駅構内はこのとおり。
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へんにスペースたっぷりであるが、これは廃止されたカルマーザン線(標準軌)の跡をこの部分で利用しているためである。模型の組立式線路を思わせるカーヴが面白い。

どうも話が長くなっていけません。とりあえずアベラストゥウィスでの蒸機の写真だけご覧いただき、沿線の状況や走行シーンなどは次回(以降)にします。
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年代、数値などのデータの多くは現地で求めたThe Vale of Rheidol Railways Visitors Guide に依っている。

*:
Beeching Axe(あるいはBeeching Cut)、1960年代のBR初代総裁Dr. Beeching4000マイル以上(全線の1/4近く)の路線を廃止した。

皮肉なことに彼の家は有名な保存鉄道Bluebell Railwayの沿線にある。ブルーベル鉄道は嫌味でそこに駅を作り、開業式にビーチングを招いた。なんとビーチングは出席して「こんな不便なダイヤでこんな高い金を取れるなら、国鉄を明日にでも黒字にしてみせる」という趣旨の挨拶をしたとのこと。 (この逸話は各種の本に出ているが、ここでは小池滋著「英国鈍行列車の旅」を参照した) 実にイギリス的である。

つづく

あまらぼ鍋屋町

2017年6月20日 (火)

人類史上最も成功した麻薬

オリンピックなどという<しょうもない>もんをそもそも日本で、まして東京でやるべきではない、今からでも返上すべきと思う。大金をドブに捨て、将来につけをまわすが、唯一のメリットかと思えた飲食店の全面禁煙化が骨抜きにされそうになった挙句、法案提出まで見送られた。ある法律の成立を期待した‐それが不十分なものであっても‐などということはわが人生初めてのことであった。12系客車と煙草が何より嫌いな鍋屋町の考えを書いておきます。

煙草論議ですぐにマナー・モラルを持ち出す人が非常に多いが、これは間違っている。煙草は人類史上最も成功した麻薬なのである。

麻薬の目的、存在理由は?

一見(一考)使用者を中毒にして破滅させることに思える。しかし、これは戦争や侵略の際の、他の国家に与える(売る)国家の意図・考えである。麻薬自体にとっては、自己存続が何より大切である。

麻薬の生産者、売人にとってはどうか?

まずは金儲けである。使用者を中毒にして次から次に買ってもらうようにするのがよい。その使用者が破滅したら次の使用者を探さねばならない。破滅までのサイクルが短いと次々に使用者を探すのも大変である。

中毒にはなるが破滅しない、あるいは破滅が極めてゆっくり進行するのが一番良い。もちろん使用者には生物としての寿命があるから、次の使用者を探さなければいけないが、慌てずに時間を掛けてやれる。

このように考えてくると煙草は理想的な麻薬と言える。

・習慣性が極端に強く、あまり時間をおかずに再び使用したくなる。

・依存性が強く、なかなか止められない
しかも一般的にイメージする麻薬と違って

・煙を吸っても、急性毒による被害は極めて稀である。

・統計的、疫学的に有害と立証されてはいるが、使用者個々人にとっては病気になったり寿命が縮んだりということは可能性が増すというだけである。

・従って止めようと思わない人も多い

だから国家が「自国民に対する売人」になって儲けることができるのである。周りの人間にこれほど迷惑をかける商品はちょっと思いつかないが、昔は訴訟で「受忍限度内」などとして非喫煙者の当然の要求が却下されてきた。つまり裁判所と雖もその売人の片割れであるから仲間を擁護したのである。

「殺人は描写しても犯罪ではないが、実行すると犯罪である。セックスは実行しても犯罪ではないが、描写すると犯罪である」という名言(迷言)がある。困ったことに現在のところ喫煙に関してはどちらも犯罪ではない。

慌てずに時間を掛けて次の使用者を確保するために、映画、文学などありとあらゆる芸術で煙草を吸うシーンを挿入する。見たもののうちの数パーセントが感化されればよい。

自身は健康に留意する作家でも、無意識・無自覚にそういう喫煙シーンを入れる。

元来私は言葉狩りは嫌いである、すべきではないとは思うが、おかしいと思う言葉は幾つかある。「愛煙家」はその一つである。彼らは立派な「薬物中毒者」なのである。これはある若い(<当時、今や中年)友人が言ったことで、私はハッとした。

極めて常識的でほかの点では申し分ない人でも、断りもせず人の前で平然と煙草を吸いだす。近くの人に迷惑を掛けるということが判っていても止められないのである。どう考えても立派な「薬物中毒者」ではないか。そういうことを考えもしない人間は論外であるが。

若いころの思い出である。

私が所属したあるセクション、課長はタバコを吸わなかった。おおっぴらには言わなかったが嫌いだったと思う。その部下である副長は吸った。

副長はユーモアあふれる優秀な人で、上司の補佐も我々若手に対する指導も定評があった。その後一番出世した人の一人である。いろいろと配慮し、うまく気を使う方でもあった。しかし酒席になると、副長は課長の横でもタバコを我慢できなかった。煙を上へ吹き上げるのが精々であった。薬物中毒の典型的症状ではないだろうか?モラル・マナーに期待することは不可能なのである。

阿片中毒者を普通の人間と同等に扱うことが不可能であるように、煙草を吸う人間を吸わない人間と同様に扱ってはいけないのである。

強制入院治療までさせる必要はないが、法律や条例で喫煙を規制して「さしあげる」必要はある。これでやっと非喫煙者を守ることができる。ひいては喫煙者も守ることになる。

あまらぼ鍋屋町

2017年6月15日 (木)

モレルばかりが有名だが

エドモンド・モレルだけが有名であるが、横浜外国人墓地には他に7人の建設創業期の鉄道関係者の墓がある。写真だけでもご紹介する。モレルの例からして、マチガイがある可能性もあるがとりあえず説明板の写真を添える。また名前のカナ書きであるが、今の常識?とは大いに外れた(身も蓋もない言い方をすればケッタイな)読み方をされているのがあるが、当時はそう呼び習わしていた可能性大とも思うので、ここにはそのまま記しておく。

 

まずはJR東日本が作った説明板である。
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この説明板はJohn Diack ジョン・ダイアックの墓のそばにある。

ジョン・ダイアックの墓
ダイアックは建築副役。今の日本語では建築というと建物に限るニュアンスがあるが、当時は英語constructionの訳つまり建設であろう。

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Charles S. Kingston チャーレス・キングストンとHenry Houghton ヘンリー・ホートン はモレルの墓のすぐ近くにある。キングストンはPolice Inspector鉄道巡査取締役とある。どんな役割だったのだろう。なお鉄道公安官(正式には鉄道公安職員)は第二次大戦後にできた制度であり、直接の関係はない。ホートンは客車荷車頭取兼組立方。
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少し離れて建築副役John England ジョン・イングランドのがある。
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別の所に建築助役Theodore Shann ゼオドラ・シャン
JR東の説明板の順からすると、助は副より格下なのだろう。
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技術者だけでなく医官も居た。

医官長 Theobald Andrew Purcell セオボールト・パーセル
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20170611p6110849こちらはセオボールドとなっている。


おなじく医官Edwin Francis Wheelerエドウィン・ホイーラー

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なかなかウェイルズの次の鉄道に進めません。


あまらぼ鍋屋町

2017年6月14日 (水)

エドモンド・モレルの墓

週末に所属する海外鉄道研究会の蒸気機関車部会があったので東下りをした。その機会にお上りさん(お下りさん?)的行動をとった。その一つが題記である。

ちょっとした訳があり、エドモンド・モレルについて鉄雑誌などをチェックした。それで横浜外国人墓地にある彼の墓も見ておこうと思った。幸いこの季節には週末のみであるが公開されているのである。*

さて普通は現地調査(たかがお墓の見学だが!)は、何か新しく知りたいことや不確かなことを確認するために行うものだが、今回のものは謂わば逆の検証である。どういうことかと言うと、、、、

実はモレルについては生没年月日、夫人について長年間違いがまかり通っていた。今もそれは再生産・拡散されているだろう。では墓碑を見たらその正しいことが分るかというとそうではない。モレルが没した時のものではなく、抑々その墓碑に問題がある。

これらの間違いについてはごく近年に通説が正されるようになったのである。それらが果たして墓地の現物ではどうなっているか、とりあえず見ておきたいという野次馬根性である。

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横浜外国人墓地の入り口である。英語ではthe Yokohama Foreign General Cemetery

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モレルの墓の全景(という言い方も変かな)

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生年1841年とあるが、実は1840年(1117日)が正しい。モレルの綴りはMorrel とlが一つである。

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没年月日の1871924日 という日附は日本には存在しなかった。どういうことかと言うと、当時は旧暦(天保歴)を採用していたので、この日は明治4924日である。新暦=現在の暦=グレゴリア歴を遡って適用すると1871115日である。**

換算するか、24th September, 4th year of Meiji と書くべきであったのだ。

モレルの綴りは Morrelll が2つで、Edmund u oに捻じ曲げている。

そして夫人であるが、日本人説がまかり通っていたが、実際はロンドンで結婚したハリエットHarriettを連れて来ていた。下記の資料館の修正された英文説明には一緒に埋葬されていると書いてあるが、墓碑には書かれていない。オリジナルの墓碑がどうだったかは分からない。書いていなかったから日本人説が出てきたのかもしれないが、とりあえずは調べようがない。

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国鉄時代にこのモレルの墓が鉄道記念物に指定された際の記念碑がすぐ後ろにある。当然ながら生年は間違っている。また没も23日となっている。夫人についての記載もない。

英語説明が日本語と較べ随分と短い。多言語の説明書きはどこでもこのような差別的?扱いをされている。

ところで、この種の記念碑はマチガイがわかったらどうすべきなのだろうか?今更建て替える必要はないだろうが、訂正文くらいはすぐ近くに書いておくべきではないだろうか。

実は私が見学している時に、スペイン語通訳を連れて熱心にメモを取りながら墓をご覧になっている婦人が来た。日本の明治について研究しているとのことであったので、墓碑や記念碑に書かれている年月日は正しくないものがあるということを説明しておいた。

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上記の記念碑の後ろ側である。今の墓石が後年の寄贈であることが書かれている。

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資料展示室の説明パネルである。

説明文が書き直されている。生年は違ったままであるが、亡くなった時は満30歳であったと何故か訂正されている。(生年間違いから死亡時満29歳であったと伝えられてきた)***

モレルの綴りは Morrelllが2つである。

ついでに見た(故人に失礼だなあ!)他の7人の墓(いずれも準鉄道記念物)の写真は次回にします。

あまらぼ鍋屋町

以下、蛇足の注

*:入り口で若干(二百円以上でした)の寄附が必要であるので、申し添えます。

**:明治5年を122日で終らせ、翌日を1873年(明治6年)11日として、新暦=現在の暦=グレゴリア歴が採用された。

旧暦は新暦よりおよそ一カ月遅いが、あくまでも「およそ」であり、年によって異なる。何故なら、旧暦は太陰太陽暦であり季節のずれを修正する為におよそ3年に一度閏月が入り年13カ月になるのである。それで○×何年は西暦何年という単純な換算ができない場合があるが、勘違いされたり、酷い時には意図的に無視されたり(特に年表など)していることが歴史の本でも多いのである。

ちなみに今年(2017年)は5月の次に閏5月(今の暦の今月24日から)がある!、但しこの閏月は天保歴(日本)によるもので、当然ながら国によって異なるので念のため。

なおイスラム歴は完全な太陰暦なので閏月が無く一年が11日程度短い。それで断食(ラマダーン)が毎年前倒しにずれていく。ただいま現在ラマダーン期間中である。2000年頃は食欲の秋にラマダーンであった。

***:ところで享年という言い方があるが、現在は本来の言い方からズレテ使っていらっしゃる方が多い。享年とは「天から享(う)けた年」ということである。つまり生まれた年から亡くなった年までの、年(暦年)そのものを数える。簡単に言えば死亡時の満年齢ではなく数え年である。また享年XX歳という言い方は重複しているので、これも本来はマチガイである。

数え年という考えは虞らくイギリス(人)にはないだろうから、「モレルは享年32」は適切ではないだろう。

若干の表現修正、誤記訂正をしました。ご指摘を感謝します。(あまらぼ鍋屋町 6月16日)

2017年6月 9日 (金)

クローディアの秘密

名作の片隅の鉄道情景(4

アメリカにニューベリー賞(the John Newbery Medal)という児童文学へ与えられる賞がある。アメリカ国内で前年に出版された英語の本、さらに著者はアメリカ国民或いは居住者などの条件があり世界的な賞ではないが、世界で一番古い児童文学賞である。

この賞の1968年の審査で面白いことが起こった。なんと同じ作者の二つの作品が一位を争ったのである。その一位、即ち受賞作がこの作品である。*

随分と少女趣味のタイトルであるが、原タイトルはFrom the Mixed-up Files of Mrs. Basil E. Frankweiler (ベイジル・E・フランクワイラー夫人のごた雑ぜファイルから) 著者はアメリカのE. L. Konigsburg (カニグズバーグ) 1967年出版 日本語訳は松永ふみ子1969年で、カニグズバーグ作品集(岩波書店)および岩波少年文庫(多少修正有とのこと)で入手可能である。

主人公の12歳の少女クローディアは4人きょうだいの一番上、下は弟ばかり。

「なんでウチばっかり、いろんなことやらされなアカンの!」と怒って家出をする。しかし突発的に切れたのではなく、用意周到である。

すぐにバレる友達や親戚の家ではない。公園や野宿なんぞで生活レヴェルを落とすのは真っ平御免!ピクニックでも虫などが嫌いである。(都会の子の観点、此の頃から現れた児童文学の新しい流れだろうか)

ちゃんとトイレがあり、暖かいシャワーは無理でもちゃんと水浴びはできて着替えもできる。そしてなにより快適なベッドがある。そんな所がどこにある? なんと美術館、ニューヨーク市**のメトロポリタン美術館である。

小遣いをしっかり貯め、しかも一人で決行するのではなく、相棒にきょうだいの中で一番経済観念の発達した弟のジェイミーを選ぶ。ストーリーの本筋はその美術館で見たミケランジェロ製作のものかもしれないという天使の像をめぐって展開する。日本語訳でいう「秘密」もこれに関係している。

しかし鉄が気になるのはやはり鉄道のこと。クローディアはGreenwich(グレニッチくらいに発音する。コネティカット州西南端の都市)に住んでいる。ここからはニューヨークへは45km(現在のダイヤで)小一時間、通勤する人がかなり居て彼女の父もそうである。

現在はMetro NorthNew Haven Lineである。当時はNew York, New Haven, and Hartford Railroad NH)、NHはこの小説出版の翌68年にPenn Centralと合併し、そのPenn Central70年に破産し、、、と紆余曲折を経ていく。

二人はこの線に乗って家出する。残念ながら車輛外観や路線の描写はないが、いろいろと周辺描写がある。

クローディアは家出準備の中で屑籠の中から回数券を手に入れるが、一枚ものの10回券で最下部に順に9回目まで入鋏し、最後は車掌が回収することが書かれている。別のところで色は赤であることが分る。

訳を読んでわからなかったのが「箱から箱へと通路をつたわって、、、、座席を二つ見つけました」であった。アメリカの近郊列車だからコンパートメントではないはずだ。まさか日本語俗語のハコ師(念のため、掏摸のことです)のハコ(つまり車輛)などという言葉が子供向けの本に出てこないだろう思ったが、どうしても気にかかって原文を読んでみると walked up the aisles of one car then another,,, そのまさかで、なんと車輛carの訳語に「箱」を充てていた。

また、ここで電車と訳されている。原文は当然trainである、EMU (electric multiple unit) なんぞという言葉は善良なる一般英語人は(多分)知らないだろう。最近の何でもかんでもデンシャの風潮かと思ったがどうもそうではない。***

此の頃にはNHの近郊線は電車化がすんでいた筈で、これで正しいのである。

終着は地下駅のグランドセントラル-ぼんやりとしたあかりの中の、ななめになったコンクリートの道を、、、と描写されている。中央駅と訳されている。訳としては正しく違和感を持つ方がオカシイのかもしれないが、鉄はカタカナのままグランドセントラルと言い習わしている。正式名称はグランド・セントラル・ターミナル。それに従ったためか「駅」という語も普通は附けない。

ジェイミーが鉄であったら、グレニッチで別の電車が来るまで待たせたり、美術館に行く前にグランドセントラルで電車や機関車を見たくてウロウロしたり、とストーリーを面白く?できるのだが、著者が女性であるためか(<偏見!)それはない。

もっとも家へ戻る(実際には物語の語り手である大富豪、フランクワイラー夫人のいるコネティカット州ファーミントンFarmington, Connecticutに行く)相談の時に、<違うやり方なら地下鉄で125th Street 125丁目)まで行って、、、>と経路選択を述べる際に男の子らしさ(<これも偏見!)を見せる。

<超個人的感想>

グランドセントラルに着いた後、ジェイミーはクローディアがメトロポリタン美術館まで「タクシーに乗ろう」と言うのを、バス利用(一人20セント)どころか40ブロックを歩かせてしまう。彼の始末屋ぶりは、この齢になってもタクシーに乗るのに罪悪感を覚えるケチな鍋屋町には共感が持てる。

あまらぼ鍋屋町

以下、蛇足の注

*:ちなみに次点は「魔女ジェニファとわたし」(原タイトルJennifer, Hecate, Macbeth, William McKinley, and Me, Elizabeth)である。この本の方が12歳前後の少女の感性にずっと沿っているという評価もあり、読んでみたが確かに(オジンにとっても)面白い。またクローディアの秘密と違い、主要な筋に大人が入って来ないところが良いと思う。なおこれにも「親が電車でニューヨークに通勤していて、、、」という趣旨の記述はあるものの鉄道シーンはない。日本語訳は同様に松永ふみ子で、カニグズバーグ作品集および岩波少年文庫で入手可能である。

**:日本では通常ニューヨークと言うだけでニューヨーク州ではなくビッグアップルの方をイメージするが、英語では州と区別するために律儀にNew York Cityと言うことが多い。この本の訳でもニューヨーク市としている。住所を読み上げるときはニューヨーク、ニューヨークというのを聞くが、これはニューヨーク州ニューヨーク市ということ。日本語で京都府京都市とか大阪府大阪市などと聞くと、「そんなん、分かってるやんけ、クドイ」と思うが。

***:最近の英語口語では個々の車輛を“train”という人が多い。私が英語で読むのはほとんどが鉄雑誌か鉄本で、それらには当然ながら現れないので、一般的な本や雑誌にこういう(謂わば)誤用が出てくるようになっているかはわからない。

2017年6月 3日 (土)

タラシン(タリスリン)鉄道再訪(11)

終着駅を目前に寄り道してしまいました。

終着駅ナント・グウェルノルNant Gwernol、起点から7マイル28チェイン(11.8km)、標高269フィート(82m)である。
このフォトチャータでは2回この駅まで行った。最初は雨、二回目は多少の晴れ間もあった。雨の時の方が印象的な写真が多いのでそれらを主体にご紹介する。

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かつてはこの路線の延長上に採掘場への最初のインクライン
Alltywyllt Inclineがあり、スレートはこの駅まで降ろされて積み替え作業が行われていた。

インクライン跡を探訪しようかとも思ったが、それは単独行でも可能であるので次回の課題とし、チャータならではの撮影に集中することにした。

雨の中、撮影の為にいろいろと走らせたり、
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相互に良い位置に
2輌のカマを配置したり、
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昔の写真にあるようなポーズをとったり、

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と、運転する側も好きでなければ実現できない情景が再現されていった。

前回書いたように、昔はこの駅には客車列車は入れなかった。それを実現する為、駅に入る直前の急カーヴでは特に大量の岩盤爆破除去作業が行われたそうである。通常のダイヤで運転されていない早朝に列車を走らせ、駅のホーム端などから急そのカーヴを撮るのが素晴らしいそうだ。残念ながら今回はその機会が無かったが、その急カーヴから抜け出してきた場所で2号機Dolgochを止めて撮影した。
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なおこの駅には普通の車では行けない。道はあるがあまりにも狭く急であり、途中に駐車できる場所もない。数年前に最初にこの鉄道を訪問した時、何も知らなかった我々は車で行こうとて失敗した。

さて、次は何を書こうかな

あまらぼ鍋屋町

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