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2018年2月

2018年2月23日 (金)

モリ 新しい機関車

さて、今回足掛け二日の撮影で使用されていたのは、常にこの機関車であった。
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新しいとは言ってももう一昔近く前になった。2009年にマイニンゲン機関車工場Dampflokwerk Meiningenで製造された99 2324である。構造の点では往年の99.32型の設計に忠実に製造されているそうである。

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半逆光で撮影すると水槽の鉄板の大小の歪みでギタギタに見える機関車が多いが、これはそれほど目立たない。もう少し近接撮影をしておくべきであった。

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他の機関車も撮影したかったが、起点バート・ドーベラン及び終点キュールングスボルン・ヴェストの庫は厳格な立入禁止で叶わなかった。観光鉄道としてしっかりやっているところはこういう点で融通が利かず残念であるが、鉄道の危険性をよく分かっていない観光客をも相手にするので致し方ない。

あまらぼ鍋屋町

2018年2月21日 (水)

モリ 他の撮影地

この鉄道の最初の開業は1886年にバート・ドーベランから途中のハイリゲンダムHeiligendammまでで、Doberan-Heiligendamm Eisenbahn(DHE)により運営されたが、1890年には国営化された。オストゼーバート・キュールングスボルンへの延長は1910年である。1920年にDRDeutsche Reichsbahn)に組み入れられた。

1997年にdie Mecklenburgische Bäderbahn Molliが設立された。(なおMecklenburgische Bäderbahn だけでは今は無い歴史上の別会社を指すそうで、Molliまで入れたのが正式名称である。)

バート・ドーベランの市外から離れてからハイリゲンダムまではほとんど道路と並行している。今回私が撮りやすいと思ったのはバート・ドーベランにかなり近い所であったが、工夫次第で他の地点でも撮れるだろう。
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ハイリゲンダムと終点キュールングスボルンの間はほぼバルト海に沿っているのだが、海と鉄道を一緒に見られる地点は、此処しかなかった。

なんともイジマシイ情けないアングルであるが、カマの前の所に僅かに海が見えている。
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それよりも、この光景の方がはるかに印象的であった。キュールングスボルンへの列車はバンカーファーストなのでこの時間帯はノンビリとロケハンしていたのだが、空を見て吃驚。レンズ交換をする余裕もなく、邪魔物の無いところまで僅かな距離だが久しぶりに‐数年前に膝を痛めてから初めて‐全力で走った。
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あまらぼ鍋屋町

2018年2月19日 (月)

路面蒸機、路端蒸機

路面電車という言葉はチャンとした日本語で(適切な解説ができているかはともかく)大抵の辞書に載っているが、路面蒸機*という語は辞書にはない。併用軌道を走る蒸機列車*をいう造語である。さらに路端蒸機という-虞らくは炉辺焼きに触発された-あまり通用しない造語もある。専用軌道であっても道路端を走るものを言う。道路と線路敷きの間の区別がハッキリしないものは好まれる。日本の鉄本や鉄雑誌を悉く調べたわけではないが、これらにもまず載っていない隠語である。

モリことMecklenburgische Bäderbahn Molliはバート・ドーベラン駅でドイツ鉄道DBDeutsche Bahn)に接続している。
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DB
から離れて公園の傍を通り抜けた後はバート・ドーベランの市街を1km餘り併用軌道で進む―即ち路面蒸機-ので、観光客にも鉄道ファンにも人気がある。(以下にはチムニーファーストの写真をお見せする為にバート・ドーベラン駅に向かう列車のものを挙げる)
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ナローの鉄道は独逸でも自動車に押されてほとんどが廃止されたが、これは東独逸時代から観光鉄道となっていた。

東独逸時代は陰鬱な通りを時たま小さな東独逸の国民車(人民車?)トラヴァントが走るくらいであったが、独逸統合後(実態は西独逸が東を吸収)は綺麗な店やレストランが並び、車も人も増えた。

車や通行人に邪魔されないで撮影するには早朝か深夜がよい。レンタカーのライトを当てた「朝飯前!」の撮影であった。
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独逸のナローゲージでは標準軌の貨車を専用の貨車(ロールヴァーゲンRollwagen)または専用の台車(ロールボックRollbock)に載せてナロー路線に直通させるのが非常に多かったが、この鉄道ではこの方式は狭い併用軌道ゆえに採用されず、通常のナローゲージの貨車のみであった。貨物輸送は69年に廃止されている。

参考写真(ロールヴァーゲン)
20171101dsc_2888モリ訪問前に参加したプリグニッツPrignitzer Kleinbahnmuseum Lindenberg e. V.のフォト・チャータでの撮影である。(この鉄道についてご紹介しようとして文章と写真が中途半端なままPCに散在している。)

モリにはもう一箇所短いが路面蒸機区間がある。
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キュールングスボルン・ミッテKühlungsborn-Mitteの停車場とその前後の短区間である。線路は南側に寄せて歩道と安全帯を一体化してある。これは統一後の変革の一つだろうと思う。歩道より内側(車道側)に線路があるので私は路面蒸機と思うが、もはや車は軌道敷を走らないのだから路端蒸機だと仰る方もあるだろう。
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発車してもスピードは全く上がらない。わずか
400mで次のキュールングスボルン・オストKühlungsborn-Ostの駅である。

注:

以下の注については3月1日の記事でもう少し考察しましたので、それをご覧いただきたい。

「蒸気」列車、従って路面「蒸気」と書く人が最近多いがこれはよくない。私はマチガイだと思っている。「蒸機」は蒸気機関車の略で鉄道趣味雑誌や書籍で長年使われている。電気機関車を電機とするのも同様である。ただしディーゼル機関車は略しようがない。もちろんワープロソフトのデフォルト設定では蒸機とは変換されない。

「蒸機列車」と「蒸気列車」の差は、これらを「電機列車」と「電気列車」に平行移動して考えてみると分かる(もっとも電機列車とも電気列車とも言わないが) 電機列車なら電気機関車牽引という意味が明確だが、電気列車では電車なのか機関車牽引なのか正体不明である。

英語ではsteam trainがちゃんとした文章・記事によく出ているので、正しいと認められているとみてよいだろう。さらにsteam(蒸気)だけでsteam locomotivesteam trainの略として使う。

あまらぼ鍋屋町

2018年2月17日 (土)

原爆のための蒸機

ちょっと(どころかメチャメチャ)大袈裟なタイトルであるが嘘ではない。

独逸のナロー鉄道で最も有名なものの一つ、モリMolliという愛称を持つMecklenburgische Bäderbahn(敢えて訳せばメクレンブルク海水浴場鉄道!?)の写真を数回に分けてご覧いただくが、最初にこの話題をご紹介する。

この鉄道はバルト海に面するかつてのハンザ同盟の都市、軍港でもあるロシュトックの西すぐの所にあるバート・ドーベランBad Doreranからオストゼーバート・キュールングスボルンOstseebad Kühlungsborn(終着駅はキュールングスボルン・ヴェストKühlungsborn West)まで15.4km900mmゲージの鉄道である。

この鉄道自体の歴史については後にご紹介することにして、これが現在のキュールングスボルン・ヴェストの発車シーンである。
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ここでちょっと右を向くと一台の静態保存蒸機が見える。
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99 332(のち99. 2332-7)カールマルクス機関車工場(LKMLokomotivbau Karl MarxもとはOrenstein & Koppel1951年製、製番30013である。99 331はまだ生きているらしいが見なかった、99 333は廃車解体された。

現場の説明板には何も書いていないが、この機関車はこの鉄道の生え抜きではなく、なんとウラン鉱山の鉄道から僚機2輌とともに1961年に来た。
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話は大きくかわるが、アメリカは1939年からのマンハッタン計画で原爆を開発し、広島でウラン原爆を、長崎でプルトニウム原爆を実戦使用した。同じ連合国のなかであったが社会主義国ソ連は自由主義圏の英米仏などとは相容れない存在であり、アメリカに対抗して原爆開発に邁進した。ただしソ連領内では当時はウランが採れず、チェコスロヴァキア(現在チェコ)や東独逸南部での採掘が進められた。のちにソ連領内でも発見されるが充分な量ではなく、ウランの存在が東欧支配の大きな理由であるという説もある。

この機関車の最初の職場がその東独逸のウラン鉱山ヴィスムート(SAG/SDAG Wismut )であった。ソ連の支配下にあった国や地域では最大の産出量を誇った。この機関車について、特にその歴史や上述の鉱山などについて現地で本が無いかと駅などで探したが、見附けられなかった。もちろん都市の大きな書店ならヴィスムートやその他の鉱山の本はあるだろうが、鉄道特に蒸機との関連を述べたものは難しいだろう。保存鉄道なら、その保存団体などが多少でも収支向上に貢献しようと良い(少なくとも鉄に興味深い)冊子や書籍を販売しているのであるが、ここはほぼ完全に観光鉄道となっているためか、その手のものはなかったのである。

ソ連の原爆の完成はアメリカなどの予想よりはるかに早く、1949年であった。従ってこの機関車が運搬したウランが最初の原爆に使われたわけではないが、その後の原爆製造には大いに寄与したことであろう。

子供の頃を思い出すと、どの国も核実験は空中で平然と行っていた。今はならず者国家の北朝鮮ですら地下実験であるから、まさに隔世の感がある。もっとも北朝鮮には空中実験に適した砂漠や海が無いのも事実であるが。

ソ連は次々に超大型の水爆実験を行うので、子供心にも恐怖感があった。キロの上の接頭辞メガ(百万)が一般人に広く知られるようになったのは、原水爆の核出力メガトン(TNT火薬換算)というコトバからであろう。

また今ではちょっと信じられないが、左翼の中には「米英の原爆は戦争のため、ソ連中国のは平和のため」などと言う莫迦が本当に実在した。もっとも、その延長線上にあるのか近隣国に肩入れし、やたらに自国を蔑にするどころか寧ろ敵対すらするマスコミ、学者、文化人?なるものが今も結構な数存在するようだが。

あまらぼ鍋屋町

2018年2月 5日 (月)

懐かしい紙幣と硬貨

三菱東京UFJ銀行貨幣資料館には、現代の紙幣や硬貨も展示してある

小学生のときに五千円札、一万円札が相次いで発行された。先にも述べたが当時は高額札と言えば聖徳太子だった。まあこれらの写真はやめておこう。

板垣退助の百円札は懐かしい。高校生の頃に大阪では次第に少なくなってきたが、大学生になって北海道に鉄に行くと、盛んに流通していた。学生時代最後の鉄旅行ではピン札の百円を何枚も集めた。しかしのちに金が無くなって使ってしまった。

一円はアルミの一円しか記憶が無い。ごく幼いころは旧の黄銅貨や紙幣だったはずだが記憶が無い。五十円の紙幣も覚えていない。展示によると流通枚数は少なかったとのことだが、物心ついてもカネにさわる環境ではなかったのか。もっとも五十円ともなると子供には縁のない大金だ。

五円は穴無しのがまだ多く流通していた。自分の生年より古いから、それだけでアリガターイと思った。鉄になって古い車輛や建造物を見るときの心理もこの延長線上にある。
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十円はギザ、そのうちにギザなしになり、それだけの差で値打ちが下がったような気がした。

五十円はニッケル、最初は穴無し、ついで穴あきになった。これも穴あきの方が値打ちが無いと思った。
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貨幣資料館で見ると記憶ほどは大きくない。現行の五十円硬貨が出た時に、十円より小さいあまりのみすぼらしさに吃驚したものだが、その反動で以前のは大きかったと思い込んだのかもしれない。

お菓子を買いに行くときは十円玉を数枚持っていった。今と違ってパックではない。みな量り売りである。「おばちゃん、○○、50匁(もんめ)チョーダイ」メートル法ではなかった。

大阪でも駅の自動販売機が登場した頃である。全て単能機で、国鉄では運賃別に何台か並んでいた。餘談になるが、大阪市営地下鉄は全線均一15円で大人小人の区別がなかった。だから大人20円、小人10円の設定になった時は、私には値下がりだった。運賃の値下げは生涯ただ一度の経験だ。

自動販売機は当初はレヴァーが附いていて、金を入れたあと、そのレヴァーをガチャンと引き下げると切符がコトンと出てきた。このレヴァー式はすぐに姿を消した。小松左京の「紙か髪か」にこのレヴァー式のシーンが出ている。貴重な文献!だ。もっともこのショートショートではレヴァーをガチャガチャやっても切符が出てこなくなったのである。何故かは原作をお読みください。

あまらぼ鍋屋町

2018年2月 3日 (土)

五十銭銀貨、一銭銅貨

五十銭銀貨は次の落語にも出てくる。

「足上り」

足が上がるとはイマドキ聞かない言葉であるが“馘首”になること。四谷怪談を背景にした芝居話である。しかし上方落語の通例で怪談と言っても少しも怖くなく馬鹿馬鹿しいのである。大店の番頭が店の金を使い込んでの芝居見物、お附きの丁稚を先に帰す。主人にことがバレテしまう丁稚と主人のやりとり、番頭が帰ってきてから丁稚とのやり取りと、大作ではないが面白いシーンの連続である。以下は丁稚が先に帰る場の独白である。同じく「特選!!米朝落語全集」東芝EMIから引く(第五集

帰りに小遣いまでもろうた。、、、、紙に包んで二枚。、、、、五十銭銀貨やったら一円。そんなべらぼうなこと、、、、。そやけど穴はあいてないさかいに、五十銭銀貨やなかったら、、、、二銭。

、、、、、縁にギザギザがあったら五十銭銀貨やし、ギザギザが無かったら一銭玉やし、ギザギザが、、、、あるある。

その五十銭銀貨と一銭玉(銅貨)である。(三菱東京UFJ銀行貨幣資料館)
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時代が下がって両者が小さくなっても同じような大きさである。
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展示には全ての硬貨が網羅されている訳ではないし、各2種類のみ挙げた)

展示に寸法は書いていないが見較べるとほんの少し五十銭が大きいようだ。しかし単独でしかも手探りでは、ギザしか違いが判らないだろう。今の貨幣だと触ればすぐ区別ができるから、こんなセリフは成立しないし、第一お小遣いに貨幣はあり得ない。

日本はチップの習慣が無い幸いな国であるが、海外では悩まされる。食事の後に小銭を残す場合は別だが、何かを頼むときのチップに硬貨は失礼だというのが通念である。アメリカで最近は一ドル硬貨も流通しているが、一ドル札がいつまでも存続しているのはチップに便利だからとの俗説がある。イマドキもう1ドルではチップにならないから、硬貨を流通させるようになったのか?

あまらぼ鍋屋町

2018年2月 1日 (木)

武内宿禰壹圓札

落語を聞くと、時に昔のお金の話が出てくる。

「二人ぐせ」

変な口癖のある二人、一人は何かあると「飲める」(それで一杯飲める)という。もう一人は何かあると「つまらん」という。前者は「人間が卑しい見られる」、後者は「陰気な、いやーな気になる」と、互いにこれを直しあいしようとする。(以下の対話部分は「特選!!米朝落語全集」(第三十九集)東芝EMIから引く)

「ただでは直らんわい。どや、一回言うたら円スケちゅうのは」

-ええ

「一円の罰金ちゅうねん」

、、、、

「、、、、、武内宿禰一枚、なあ」

-、、、あっさり言うけどなあ、お前。五十銭銀貨二枚枚いうたらかなりのもんやで、お前。、、、、、

あとどうなったかは、落語をお聞きいただきたいが、私が気になっていたのは、武内宿禰の壹圓札と五十銭銀貨である。いつ頃の話だろう?

まあ、この話は時代設定をいつにしても違和感を感じさせないものであるが、60年代から80年代半ばまでは同時代の設定にするとやり難かったはずだ。この頃は千円も、五千円も、一万円も、高額紙幣が全て聖徳太子であった。

しかし、現在のことにして、「福澤諭吉一枚」「樋口一葉二枚」でもあまり面白くないと思う。やはり紙幣と硬貨でないといけない。

この紙幣や硬貨を見に三菱東京UFJ銀行貨幣資料館に行った。この博物館はずっと昔は栄の東海銀行本店にあった。貨幣の展示だけでなく、歌川廣重の「東海道五十三次」の浮世絵をおよそ2カ月毎の展示替えで見せている。展示替えがあるたびに案内が来るので、散歩買い物がてらこの版画展示を見に行くのだが、今回はしっかりとお金の展示も見てきた。

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武内宿禰壹圓札の時代は実に長いことが分った。傳説上のご本人も何代もの天皇に仕えた長寿者であるから、それに倣ったのか?1889年に発行開始、当初は番号が漢数字であったが、1916年からアラビア数字になった。

兌換券なので金に(日本は実質的には銀本位制だった、金本位制は1897年から)交換してもらえるが、なんとその旨を裏面には英語で書いてあることはこれを見るまで知らなかった。

1943年から同じく武内宿禰の図柄で(但し肖像が中央)壹圓札が出ている。しかしもう五十銭が銀貨の時代ではない。

あまらぼ鍋屋町

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