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2018年5月

2018年5月31日 (木)

電動車

電動車という語を見てどういうものを思い浮かべるだろうか?

善良なる非鉄の皆さんなら、電気自動車かな?と思われるかもしれない。あるいは身体障碍者や老人が使う電動カートか。しかし「鉄」なら、電車、正確に言えば電気動力の動力分散式の車輛編成*、のうち動力つまりモータがついている車輛のことだと言うだろう。

*英語にはEMU=electric multiple unitという言い方があるが、鉄以外の英語人にはまず通じない。日本語では電車としか言いようがない。

さて、あるところで鉄道用と比べるとかなり小規模の海底隧道工事の写真と解説を見た。そのうちの隧道内に管を敷設する工事で、運搬の手法について

―,,,立坑から降ろして搬入、シールドトンネル内では電動車により運搬し、溶接で繋いで敷設し、、、、― と説明している。

電動車に新しい語義を加えたようだ。

蓄電池機関車と書いても読者に理解してもらえないから、、、というより記事を書いた方が機関車という語をもう知らない可能性が高いと思う。今は鉄道車輛は何を見てもデンシャだけど、流石に人が乗らないのはデンシャとは言えないという意識が働くのか。

しかしちょっと待て、この説明文を書いたのは広報担当者だろう。そうすると単に現場で聞いた用語をそのまま使った可能性もある。

工事現場や建設工事業界では、(トロッコでは手押しイメージが強いから?)現在はこういうギョーカイ用語を使っているのだろうか?鉄でもそれこそトロッコを追いかけている人には当たり前のことで、「、、、EMUの中で附随車に対して電動車?うん、そういう用法もあるねえ」と仰るのだろうか?

あまらぼ鍋屋町

2018年5月25日 (金)

タイ鉄道と日本軍

―鉄道の戦時動員の実像 19411945年―

柿崎一郎 京都大学学術出版会 20181

日本が米国と戦争をしたことを知らない若者が居るという。広島、長崎への原爆投下は知らない人は居ないだろうから、これはちょっと眉唾ものである。

しかし、大東亜戦争*でタイと日本の関係がどうであったか?となると曖昧な方が多いと思う。それが証拠に、戦後日本がタイに輸出した蒸気機関車を戦後賠償と言う方が結構いらっしゃる。賠償とは戦勝国が敗戦国に課するものである。タイは日本の同盟国であったので、そうではない。

*:この呼び方は日本の野望を表しているのでアカンと言うことで、私の世代は太平洋戦争と教えられたが、これは逆に米国の視点による偏った呼び方である。とにかくまあアジアでの第二次大戦である。

では、逆にタイの若者はよく知っているか?となると、個人的経験ではあるが、泰緬鉄道は完成できなかった、と思っていた人が居たし、タイに空爆を加えたのは日本軍だという人も居て、少し心許ない。もちろん連合国が爆撃―非戦闘員殺傷を目的とする焼夷弾投下ではなく戦略拠点への爆撃である―をしたのであり、泰緬鉄道の建設は当初計画と比べると情けない規模のモノしかできなかったのであるが、、、、

それにタイが日本軍の侵攻・通過を認める前やその後も小競り合い(死者もでた)はあった。

平和ボケで軍や戦争のことについて日本人はよく知らないと言われる。私もその範疇に入る。戦争の話となると、どうしても航空機、戦車、船の話が詳しくなり、ドンパチの戦闘行為とその元になる戦略が注目される。あるいは逆に悲惨な捕虜体験である。

しかし、戦争のためには人をそこまで運ばなければならない。兵器が要る、弾薬の補給もいる。戦闘行為だけではなく、占領を続ける行為も必要である。相手に勝てば捕虜も居る。負けると上手く退却しなければならない。なにより人間は飯を食う。住居も衣服も要る。兵隊だけではなく非戦闘員もいる。考えようによっては代わりのある!人間よりも大切な燃料も運ばなければならない。これらはどうだったか?

「輜重輸卒が兵隊ならば、蜻蛉蝶々も鳥のうち」という戯れ言葉がある。如何に日本軍が兵站**を軽視したかという象徴である。

**:今は情けないことにロジといういい加減な英略語(正しくはロジスティックスlogistics)の方が通用し、輜重(しちょう)も読めない人が結構多いだろう。

この言葉は陸軍士官学校卒業生、つまり職業軍人であった父から聞いた。餘談になるが士官学校の少し上の年次に高木正雄という非常に優秀な生徒が居た。のち韓国大統領になった朴正煕であるが、当時から注目はされていたようである。

さて、その兵站に於いて重要な役割を果たす鉄道はどうだったのか?鉄道聯隊などの軍に属する鉄道は趣味の面でも注目を集めるが、一般の鉄道はどうであったか?占領した国ならば、資材などが許す限り軍が思うように鉄道を使える。しかし、(強制的に)同盟国となったタイにおいてはどうだったのか?

それを詳しく調査した本である。

―本書はタイ国立公文書館に所蔵されていた第2次世界大戦中の軍事輸送に関する豊富な資料を用いて、戦時中の日本による鉄道の戦時動員の全体像の構築と、それに対するタイ側の対応を明らかに、、、―(本書終章から引用、下線は引用者による)

日本は敗戦時にかなりの、殆どと言ってもよい、資料を破棄したので、資料はタイ側のものに頼ることになったのが、当然タイ語でありハードルが高い。著者はタイ語の教科書(その名も「教科書タイ語」(めこん))も書いていらっしゃるほどの方である。そして何より大事なことは著者はタイで学ばれただけではなく、鉄道ファンでありタイ全土を(おそらくは何度も)旅行されているのである。

の本は学術書であり決して読みやすい本ではない。論証のために少しくクドク書かれているところもある。またタイの地名に馴染みのない方は、添えられている地図や略図と見比べて読み進める必要があるだろう。幸い私はタイの鉄道はマレーシア国境の一区間を除いて完乗し、区間によっては何度も乗っているので、鉄道沿いの地名だけには馴染みがあり、この点では苦労しなかった。もちろんその町をよく知っているという訳ではなく、こんな感じの駅だったとか、静態保存の蒸機を撮るために降りた場合は駅附近の町はどんなだったとか、宿泊した場合は汚いホテルだったとか、そういうドーデモエエことばかりであるが。

読み進めるのに全く支障はないが、本文の注は当該ページに附されていてタイ語文献の名がどんどん出てくる。これはラテン文字転写で書かれているが、それがどういう意味かは英語でも日本語でも示されていない。巻末の引用文献リストのタイ語文献名はタイ文字とそのラテン文字転写のみで書かれている。逆に引用文献リストの外国語!文献名はごく一部の英語を除き日本語のオンパレードである。

なおタイの鉄道に関しては同じ著者による

「王国の鉄路」 京都大学学術出版会 学術選書048 

がある。本来はこちらをご紹介する文を先に書くべきであったのだろうが、弊ブログを始める前の2010年の出版であり、時機を逸してしまった。

また、タイに関する予備知識を得るには同じ著者の「物語 タイの歴史」(中公新書)をお勧めできる。

あまらぼ鍋屋町

2018年5月19日 (土)

ねじり橋 ついでに

技手

ねじり橋こと六把野井水拱橋、こんな銘が埋め込まれている。
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並んでいるうちで一番エライ人が専務取締役である。そして主任技術者、監督技手、、、と続く。今は技手などという言葉も目にしなくなった。漱石の「坊つちゃん」の末尾、主人公「坊つちゃん」は東京に戻った後、ある人の周旋で「街鉄の技手」になった、とある。専門学校(物理学校)卒では技師にはなれなかったのである。もっとも物理学校は現在は東京理科大学である。

古い言葉ではあるが、私が某社に入社し、数か月後に正社員になった時の辞令には

「 ○野×助 社員に登用する。 △級とする。 技手とする」

とあった。私は某大学卒であるが、大卒も値打ちが下がって!技師ではなかった。高卒で入った人は「技手補とする」であった。

△級というのは給料に関係するのだが、技手とか技手補の資格(?)はもう有名無実であった。級が上がるにつれ、勤続年数が増えるにつれ、技師補、副技師、技師、上級技師と上がっていく仕組みであったが、数年後にこういう意味のない資格呼称制度は廃止され、私は技師にはなれなかった。

さて、ご多分に漏れず北勢線の列車は普段はガラガラである。ただ朝や昼下がりには通学客で満員の場合もある。車でしか撮影に行ったことのない方はこういう実態をご存じかどうか、、、、

国や自治体が関連道路を拡げ―こんなことに矢鱈税金を使わないでほしいのだが―、少子化がさらに進んで通学生がもっと減少し、現在の沿線自治体からの暫定的な支援が無くなるまで、、、あと何年の猶予があるか分からないが、せいぜいこの鉄道を楽しむことにしよう。

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こんな注意札(スズメバチの巣)もあるので気を附けないといけない。

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今の季節だけ、夕方かろうじて築堤の北側に陽が当たる。

あまらぼ鍋屋町

2018年5月18日 (金)

ねじり橋(三岐鉄道北勢線) 続

ねじり橋を反対側(南側)から見る。
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この橋が跨ぐのは、
1601年桑名城主本多忠勝が着工し1635年に完成した全長12kmの六把野井水である。4世紀に亘り田んぼに給水を続けている用水に較べると、北勢鉄道以来100年の歴史を持つナロー鉄道といえども新参者である。

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アングルによってはとても鉄道橋とは見えない。

井水であるが、「せいすい」あるいは「いすい」と読んで井戸水を言うことが多いのではないかと思うが、ここでは灌漑用水のことである。

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田植えの時期であるからか、ちょっと恐怖感を抱くような水量で流れていた。

そしてこの六把野井水であるが、「ろっぱのゆすい」と「ろっぱのいすい」(三岐鉄道ウェブサイトなど)の2通りの読みが見られる。 

三重県のホームページ(サイト)では、六把野井水は見つからなかったものの、南家城川口井水に「みなみいえきかわぐちゆすい」と假名を振っている。いろいろこの地方のことを調べていくと、大井と書いて「おおゆ」と振り假名のあるものもあった。井を「ゆ」と読むのはこの地方独特の読み方なのだろうか?あるいは私の教養不足で各地にあるものだろうか?

なお北勢線にはかつて「六把野駅」があった。これは穴太(あのう)駅と北大社(きたおおやしろ)駅の間であったが、この場所は六把野新田で、その区域は広くない。あるいは他の地名がどんどんできて(古臭い地名!)新田が狭くなったのか?ともかく六把野新田からこの六把野井水拱橋までは7~8km離れている。六把野というのはもっと広い区域を言ったのであろう。

六把野駅は北大社駅と統合され東員駅ができ廃駅になった。歩き鉄には多少なりとも不便になった。もっと不便になったのは楚原駅と終点阿下喜駅の間(約6kmある)にあった上笠田駅と六石駅が廃止され、いまやこの間には麻生田駅だけになったことである。この大築堤なら良いが他の撮影地を選択した時、往きは張り切って歩くのでそれほど感じないが、撮り終えて帰途に就くとき、特に成果が<今市どころか宇都宮>であったときは楚原に戻るにしても、麻生田まで進むにしても、実に遠く感じる。

あまらぼ鍋屋町

2018年5月17日 (木)

ねじり橋(三岐鉄道北勢線)

珍しく国内鉄です。

我家から簡単に行けるところにナローらしいナロー、貴重な762mmゲージ路線がある。そして人気撮影地までは、名古屋駅からワンコインとは行かないが500円玉三枚で往復できる*。電化路線ではあるが、まあアリガタイことである。

それは三岐鉄道北勢線、そしていつ行っても鉄の居る撮影地は楚原駅から麻生田(おうだ)方面へ1kmほどの所にある大築堤である。

(*:近鉄で行くとJRよりも片道90円餘計にかかるのでオーヴァーする。近距離なのに随分差がある。)

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この大築堤に二つ橋がある。一つは俗称めがね橋。20180510dsc_1484_2

 

何にでもイチャモンを附けるが、三連でメガネとはこれ如何に。手塚治虫の漫画に「三つ目がとおる」というのがあったが、彼が使うメガネかな?

正式名称は明智川拱橋である。「拱」は両手を胸元で組合せること、つまり拱橋(きょうきょう)とはアーチ形の橋のことである。また「拱手」というと昔の支那のお辞儀の仕方である。このような漢字語があるのに、カタカナ語の方が分り易いのは(我ながら)情けない。

もう一つの橋はこれ、ねじり橋。普通の鉄道写真(列車写真)は撮りにくい。全編成を入れると橋の特徴が分からない。
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ぐっと近づくと
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正式名称は六把野井水拱橋である。

橋は1916年竣工、コンクリートブロック製。個人的には煉瓦積みのねじり橋ほどの風格を感じないが、コンクリートブロック製は現存する唯一と言われている珍しいものとのこと(三岐鉄道ウェブサイト)画面下に見える用地境界標、近鉄マークが入っている。これが三岐鉄道のものに取り換えられることは今後起きるのだろうか?
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長くなったので、、、つづく

あまらぼ鍋屋町

2018年5月16日 (水)

始末の極意

「始末の極意」と云う落語がある。ここで下手な解説をするより、実際に見て(あるいはCDなどで聞いて)いただくのが良い。実にイロイロと馬鹿馬鹿しい極端な始末(ひょうじゅん語、きょうつう語で言えばケチであろうが、「始末」にはできる限り無駄な金やものを使わないということに力点があり、ちょっとニュアンスが違う)が紹介される。

これで思い出すのが我が母親の始末である。大正生まれ、まあ貧乏でもなく裕福でもない家に育ったのだが、もって生まれた気質か戦中戦後の物の無い時代を経験していたからか、物を捨てられなかった。また水道のタップを捻ってジャーッと勢いよく出すと「メータが廻りすぎて損や」とよく𠮟られたことも思い出す。容積型のメータなのでそんなことは無いと思うのだが。

住んでいた大阪の地下鉄沿線の住宅地にも、昔はイロイロと物売りが来たし、訳の分からんもんも来た。

その中で面倒なのは獅子舞である。大抵は一人で来て、玄関で獅子をあちらこちらに向けて、口をカタカタ言わせる。御払い、厄払いということであろう。堅気の人間ではないので、ちょっと掴ませないと帰らない。今なら「ケーサツ呼ぶぞ」で済むのだろうが。

それで、そういうのがやってくると母親は応対に出ない。私の役目である。幼時なら獅子舞などは怖いのだが、小学生になるともう大丈夫である。母は「これやっとき」と、なんと十円玉一枚を私に渡す。大人が十円玉一枚を出すわけにはいかないが、子供なら、と考えたのである。

しかし、、、、、私にはその十円をやるのが実にモッタイナかった。当時は国鉄の初乗りが十円(子供は五円)であったし、何より十円玉一枚あればタコ焼き一舟七個入りが買えたのである。「始末の極意」では信心家と称する主人公は住吉っさん(大阪の住吉神社、現在は住吉大社という)の四つの社に参詣する際、初めの三社では賽銭箱の隅に一銭玉を載せては引込めし、四つ目でやっと「御一同さんに」と放り込む。私はこの獅子舞対策の後遺症か神社でお賽銭をあげるようなことはしないし、そもそも近寄りもしない。お祓いはもとよりお御籤とかご祈祷とかお布施とか、全部嫌いである。

あまらぼ鍋屋町

2018年5月14日 (月)

夜タノだけに訪問したLeighton Buzzard Light Railway(その5)

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目の毒である。私はカマ屋であるが、こういうのは是非詳細に見たい。残念ながらこれ以上近附けない。

 

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奥の少し高い線路にPC Allen、手前にJennieである。人気の構図で、実は柵の所で撮影者がひしめきあっていた。と言っても日本の撮影地の所謂“激パ”とは全くレヴェルが違う。もう少し右側からも撮ってみたかったが、これが柵の右終点だった。

 

オマケ、龍頭蛇尾
20171028dsc_4251sPenlee  0-4-0WT

Stahlbahnwerke Freudenstein 1901年製 製番73 Berlinの愛称もあるようだが、銘板はPenleeとなっている。コーンウォールのPenlee Quarry railwayで使用された。

シュタールバーンヴェルケ・フロイデンシュタインはOrenstein & Koppelで働いていたJulius Freudensteinが設立した会社であるが、あまり成功せず、10年ほどでコッペルに吸収された。

後に見える木造車も気になるし、今回撮影できなかったカマも結構な数ある。この鉄道<も>どうしても再訪の必要がありそうだ。

この項終わり

あまらぼ鍋屋町

2018年5月12日 (土)

夜タノだけに訪問したLeighton Buzzard Light Railway(その4)

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Page’s Park Station構内を走るPC Allen0-4-0WT Orenstein & Koppel 1913年製 製番5834 スペインTorrelavegaトレラベガのSolvay Alkali Works(ソルベー法炭酸ナトリウム製造工場)で使われた。PC Allenはこのカマを保存のために63年に購入したファンの名前である。


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普通はこういう重機との並び写真は忌避するが、砂採り鉄道としては嬉しい。このような軽油?ガソリン?エンジン使用のショベルはいつ頃から使われ出したのだろうか。この鉄道の現役時代の初め、Hudswell-Clarkeの蒸機(軍用のものを轉用)がうまくいかず、すぐに内燃動力にとって代わられたようだ。現地で買い求めたパンフレットにはカラーだが古そうな砂採取風景の写真があり、虞らくは同形のショベルが写っている。

続く

あまらぼ鍋屋町

2018年5月10日 (木)

夜タノだけに訪問したLeighton Buzzard Light Railway(その3)

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Page’s Park Station
を出発するChalonerである。

ウェイルズのカーナヴォンのDe Winton1877年製、製番不明 車輪配置は0-4-0VBT

VBは縦型ボイラを意味する。

北ウェイルズのスレート採掘輸送に使われた。このメイカーの同様の縦型ボイラ機にはVale of Rheidol Railwayヴェイル・オヴ・レイドル鉄道、Talyllyn Railwayタラシン鉄道の博物館、Brecon Mountain Railwayブレコン・マウンテン鉄道(カマは個人所有)などで展示、修理待ちのがある。
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最近、中国の炭鉱線で壮大に火の粉をあげて走行する蒸機を夜間撮影するのが流行しているが、それに比べると数千分の一の線香花火である。
Stonehenge Worksにて。

このカマはできれば細部もじっくり観察したいものである。

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Page’s Parking構内を走るDiana

Sirdar Class 0-4-0T Kerr Stuart1917年製 製番1158

ウェイルズのKerry TramwayOakeley Slate Quarry (フェスティニオグFfestiniog Railwayの終点Braenau Ffestiniogの町にある)、Pen-yr-Orsedd Quarryでスレート輸送に使われた。

現在個人所有で、ヴェイル・オヴ・レイドルでレストアされ、Bala Lake バラ・レイクRailwayをベースとしている。バラ・レイク鉄道は残念ながらまだ訪問したことが無い。

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続く

あまらぼ鍋屋町

2018年5月 9日 (水)

音をつくることが大切

ロシア語だけの青春

-ミールに通った日々-  黒田龍之助 現代書館

割込みです。黒田氏の本は面白い。特にスラヴ語関係のものは著者の長く深い体験が反映されるので尚更で、一気に読んでしまう。

幾つかの著書を読んできて、氏が代々木にあったロシア語学校で学んだこと。そしてその名はミール(ロシア語で平和の意*)ということは分かっていた。そのミールが東一夫、多喜子夫妻により設立運営されていたことも分ったが、なぜその塾のようなものが日本のロシア語界で、尊敬の眼差しで見られていたかは分からなかった。

その鍵は「ひたすら発音、そして暗唱 他のやり方は知らない」(帯から)にあった。

たしかに、いくら努力してもネイティヴと全く同様の発音を獲得できる人はごく稀である、少々間違った発音でも通じることは多い。

しかし、だからと言って学習の段階で手を抜いてはイケナイ。大袈裟なくらいにその言語の発音の特徴を真似し、微妙な差に注意を払って学ばなければならない。

特にロシア語の場合はウダレーニエ(強弱アクセント)が重要である。弱いところは母音が変りさえする。日本語は高低アクセントである。英語も強弱アクセントであるが高低も絡む。

タイトルにした「音をつくることが大切」はミールの教授陣が生徒に対して繰り返し言った言葉とのこと。名門大学や定評ある大学院の学生でも発音がおかしいと容赦なく指導されたとのこと。ちなみに黒田氏が中途入学された上智大学の外国語学部では「鬼のイスバ(イスパニア語=スペイン語)地獄のロシア」と言われるほど厳しかったそうであるが、、、、

80年代に中華人民共和国河北省で撮影した時のことを思い出した。ガイドなんぞは使わず、タクシーで撮影したのだが、私がタクシー運転手とのコミュニケーションに苦労しているからか、怪しげな所へ行こうとするからか?日本語を話せるという中国人が2日目に附いてきた。公安だったのか?今と違ってタクシーの運転手のご機嫌を損ねると行動できなかったのである。さてこの男、北京語言学院(現在は北京語言大学)の日本語科を卒業したといった。同国の外国語教育の超名門である。しかし非常に下手糞で半分くらいは何を言っているのか分からなかった。当然ながらガイド料やチップなんぞは拂わない。幸い附いてきたのはその日だけだった。彼は嘘をついていたのかもしれないが、有名学校を卒業していても実力の無いものが居るのは事実である。

また、発音を学ぶに際して必ずしもネイティヴスピーカが優れているとは言えないとも書いてある。ネイティヴで外国人に教えている人間は、下手糞な発音に慣れ過ぎているのである。特に英語なんかはそうかもしれない。また、自分で苦労して獲得したものではないから教え方も分っていない人が居るようだ。

以下蛇足

*ミール:мир 平和、ロシアの宇宙ステーションの名にも採用された、またトルストイの「戦争と平和」はВойна и мир (ヴァイナ・イ・ミール)

同じ発音(ミール)で“世界”の意をもつ語がある。以前はміръと表記されたが、1918年の正書法改革でіの文字が廃止され、表記上区別がつかなくなった。なお当時は平和のミールはмиръと表記された。この二つの語は文脈によっては区別がつかない可能性もある。こんなことでは改悪と思うが外国人が口を出すことではなかろう。

ただ日本語については言う権利があろうし、言うべきである。なぜ旧()假名使いをやめて新假名使いにしたのか?なんでもかんでも発音通りにすればよいというものではない。

そもそも無理で、一時的に出来たとしても、すぐに発音は変っていく。漢字のくだらない制限も要らないし害を及ぼすだけだ。駐とん地(養豚場?)、処方せん(処方しません?)、ら致(これは最近は拉致と書かれているようだが)、、、じつに見苦しい。

ましてや過去の文献や文学を新假名遣いや戦後略字に書き換えるのは是非やめてもらいたいものだ。

あまらぼ鍋屋町

2018年5月 8日 (火)

夜タノだけに訪問したLeighton Buzzard Light Railway(その2)

当日撮影できた蒸機を順にご紹介する。

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カマはRishra  0-4-0T  Baguley Cars Ltd. 1921年製 製番2007


このメイカーの蒸機としては唯一の動態保存らしい。インドのカルカッタ(現コルカタ)で給水所の石炭輸送に使われていた。

此処では小さすぎて通常の客車牽引には使われていないとのこと。

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撮影者が立入れる区域は厳格に柵で区切られている、従ってあまり凝ったアングルは採れない。ゲージュツ写真を目指したい人には不満があるだろう。しかし、撮影者がお互いに支障になることはあまりない。上は例外的である。

右に見えるカマであるが、
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Jennie 

此処のカマではなくAmerton RailwayStaffordshireにある)からの訪問機である。

Wren Class  0-4-0ST ハンスレットHunslet2008年製 製番3905

実はオリジナルデザインはKerr StuartWren Classで、その1941年製最終機のほぼ正確なコピーである。もっともこの最終機も当時すでに(1930

年に)暖簾を譲り受けていたハンスレット製である。
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当鉄道にもこのWren Classが居る。修理中であったのかこの時は見られなかった。代わりにPage's Park Station

に展示してあった模型の写真を。Pixieという名である。
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実車は Kerr Stuart 1922年 製番4260

Devonで道路建設や採石場で使われた。

続く

あまらぼ鍋屋町

2018年5月 6日 (日)

夜タノだけに訪問したLeighton Buzzard Light Railway(その1)

 

 

所謂SLブームの頃、ある雑誌に「夜も楽しく」という記事があった。どの雑誌の何号だったか?夜<も>楽しく鉄道写真を撮りましょう、ということで夜間撮影の勧めであった。それで夜間撮影のことを「夜タノ」というファン(我が友人たちもそうだが)が現れたが、この語は鉄の間でも市民権?は得ていないようだ。

 

「夜はどこかで飲みましょう」とか、「怪しげなところに繰り出しましょう」とかを想起させる語なので、勘違いする方が結構多い。同様に市民権を得ていないと思われる言い方にはゲバ(ゲバ棒=三脚のこと)があり、当時は通用していたが今や殆ど使われないものに丸井写真(駅の近くで撮影したもの、すること)、キオスク写真(駅構内で撮影したもの、すること)などがある。

 

倫敦(ユーストン)から北西へ約40km、一時間足らずの所にLeighton Buzzard レイトン・バザードと云う町がある。19世紀から砂の採取がされていて、馬車軌道(のち蒸気動力も)による輸送があった。第一次大戦の勃発により鋳型用の砂がベルギーから得られなくなったので、代替供給源としてここレイトン・バザードのものに白羽の矢が立ち、採掘(輸送)量が増加した。しかし道路の傷みが激しく1919年に2フィート軌間のLeighton Buzzard Light Railwayが開業した。採掘所のDouble Archesと町の南の本線のGrovebury Sidingsを結んでいた。第二次大戦後再度道路輸送が増えてきて69年に廃止された。

廃止前に保存団体が設立され、現在はStonehenge WorksPage’s Parking間、全長3マイル弱の保存鉄道となってある。

昨年10月末、ここで夜間撮影大会が開かれたので参加した。昼間も撮影したかったのだが、当日は昼間の列車走行はなく、庫などへの立入を厳しく規制している保存鉄道なので、昼の撮影は今回は断念した。今後機会があれば各機関車を良い光線条件できちんと撮影したい。

BRの駅は町の南西であるが、現在の起点Page’s Park Stationは町の南東側にある。両者の間は約2.5kmなので歩いて行ける。

夕方にPage’s Park Stationに着いた時には、もうカマの一部は庫から出ていた。
20171028dsc_4185このカマはDoll 車輪配置0-6-0TAndrew Barcley Co.1919年製、製番1641である。

最初はOxfordshireの鉄鉱石採掘場で使われたが、Bilston Furnaceでの使用が長かった。1966年にBressingham Steam Museumに移り、当鉄道が1972年に購入し2004

年に新しいボイラに換装された。

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この列車で夜間撮影が行われる終点のStonehenge Worksに向かった。併行して道路があるので、多くの参加者は車で直接撮影会場へ向かったのではないかと思われる。


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Stonehenge Worksではこのカマだけが光線状態が悪い所に停車したままであった。

続く

あまらぼ鍋屋町

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