蒸機

2018年12月31日 (月)

我々のは保存鉄道ではない その3

リントン・アンド・バーンスタプル鉄道 Lynton and Barnstaple Railway2回目はガーラの時に訪問した。あわよくば1日目の夕方から見られるかと思ったが、「純粋に水動力のケーブルカー」で書いた事情で2日目のみの訪問となった。また、さらに次の日にフォトチャータがあったのだが、超人気ですぐに売り切れ、キャンセル待ちすら叶わなかった。

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この日の稼働機は4台であった。

まずはこの日の目玉、Lydである。

LydはフェスティニオグFfestiniog鉄道の機関車で同鉄道のボストン・ロッジ工場で長年にわたりゆっくり製造され2010年に火入れを行っている。今回はガーラのためにやってきたのである(visiting enigineという)

リントン・アンド・バーンスタプル鉄道のLewをモデルとしているが、これは1925年にマニング・ワードルManning WardleSouthern鉄道(当時はこの一路線であった)に納入した2-6-2Tタンク機である(製番2042)。Lewは軌道撤去工事に使用された後はブラジルへ送られたのではないかとされているが、英国の機関車としては珍しく(!?)、経緯も現況も不明である。

Lydは前回書いたLynと同様で、外見はLewのクラシカルなスタイルであるが、構造面では近代的な蒸機である。最初は油焚きで製造されたが、石炭焚きに改装された。


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このガーラ2日目には、LynLydの重連および単機で客車列車の牽引が繰り返された。

ガーラ1日目とこの翌日のフォトチャータの日は抜けるような青空が広がる天気であった―私は移動日!-が、2日は曇りベースの天気であった。
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客車列車と別に貨物列車も仕立てられ、前回ご紹介したAxeFeithというカマがトップ・アンド・テイルで担当した。Feithが後尾であった。

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Feithはジョン・アップヒルJohn Uphillという人が製作した0-4-2Tの機関車で、通常はサマセット州のガーテル・ライトレイルウェイGartell Light Railwayにいる。まるで76/76のライヴスティーム*みたいである。

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客車列車はウッディ・ベイからキリングトン・レインを往復したが、貨物列車はその間を縫う形でウッディ・ベイからほんの少しの区間を往復するだけであった。撮影者としては少々物足りなかった。

の鉄道訪問について

現在鉄道の主たる駅であるウッディ・ベイに良いホテルがあるが、餘程早く予約しないととれない人気である。一回目の訪問では幸運なことに確保できた。ただ夕食が供されないし、附近にはレストランも売店も何もないので、車がないとなんともならない。バス利用の私は仕方なく冷凍食品を買い込んで出かけた。(電子レンジがあることは電話して確認した)

リントンには多くのB&Bがあるので、(私のようなペーパードライヴァは)そこから路線バスで行くのがよいだろう。本数が少ないので朝食を採る余裕がないかもしれないが。

二回目の訪問の時は英国の友人にリントンから便乗させてもらう手筈であった。しかしガーラでは来訪者が極めて多いため、通常の駐車場では捌ききれないので、これは身体障碍者専用とされ、一般の客はリントンの街から、あるいはブラックムーアBlackmoorに設けた駐車場からリントン・アンド・バースタプル鉄道が提供するシャトルバスを利用することとなった。

(蛇足&イチャモン)
*:Live Steam 本当に蒸気をつかった模型と言うくらいの意味、日本でもライヴスティームと言うが、この言葉は多義であり分かりにくいし、一般に浸透しないうちに、ミニSLという嫌な言葉が蔓延ってしまった。

なお、この鉄道のウッディ・ベイ駅にもライヴスティームがあり運転されている。まともな写真が撮れなかったので(乗客や運転者が大きく写っている)のでここに載せるのは控えます。

この鉄道はこれで一旦終わります。

あまらぼ鍋屋町

2018年12月29日 (土)

我々のは保存鉄道ではない その2

リントン・アンド・バーンスタプル鉄道 Lynton and Barnstaple Railwayは今まで2回訪問した。まずは最初の訪問を書きます。

使用されていた機関車はLynのレプリカおよびAxeであった。
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オリジナルのLynについて

名前はLyn川に由来する。*

この会社の4番目の機関車、といっても1号から3号にすぐ続いて発注されたのであるが、車輪配置2-4-2Tのタンク機である。なんとボールドウィン(米国フィラデルフィア)製である。というのは当時英国では一日8時間労働を目指しての労働争議が続いていて、各メーカーは厖大な受注残を抱えていたのである。部品の状態で輸入され、1898年にこの鉄道のPilton工場で組み立てられ試運転となった。こういうのは1898年製としてよいのだろうか?鉄道の閉鎖に伴い1935年に解体された。

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レプリカのほうであるが、2009年に製造計画が発表された。木製のキャブ、ボイラというように部分部分で製造されていき、Alan Keef Ltd.Ross-on-Wye、英国)が最終の組立てを担当した。2017年に試運転、9月に営業運転に使用開始で、私は英国の友人から話を聞いて11月に見に行ったのであるが、今回の話はその時のものである。(ならばもっと早く載せろ、とのお叱りを受けそうだが)

外見は(レプリカだから当然であるが)オリジナルと同じであるが、過熱蒸気使用、熔接構造採用、ガス化燃焼、4ノズルの レンポアシステムLempor systemとコルディナKordinaの採用*2、全軸・瓣装置を含む全可動部へのローラーベアリング採用とできる限りの近代化がなされている。

もう一つの機関車はAxeである。*
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-6-0T サイド・アンド・ウェルタンク機 

カーストュアートKerr, Stuart & Co Ltd2451番、1915年製でフランスが西部戦線用に発注した60cm軌間のジョッフルJoffre クラス の一つである。

1956年頃英国のファンがこれを含む5輌を再発見し、74年に英国に戾った。83年にLynton & Barnstaple鉄道が購入、ヴォランティアメンバーによる修復を経てGartell Light Railwayにより完成した。

前回少し書いたが、この訪問時は、終点キリングトン・レインのパッシングループPassing loop(日本語で何というのか?前後共に本線に繫がっている側線)の遠い側即ちウッディ・ベイとは反対側の転轍機をLynが通過できなくなったのである。
このため、最初の列車をAxeLynのトップ・アンド・テイル*3で運転して、Axeをキリングトン・レインに残し、その後の運転ではLynに牽引されてやってきた編成はLynと客車に分離したのちにLynはウッディ・ベイ側の転轍機を使って退避し、Axeが客車を動かしたのちにLynが客車のウッディ・ベイ側に連結されるという運用をしたのである。

キリングトン・レインから登ってくる列車

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当然ながら最終列車はAxeLynの重連でウッディ・ベイに戾った。

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この日1112日はRemembrance Sundayであった。リメンブランスデイは19181111日の第一次世界大戦終結(独逸と連合国の休戦協定締結*4)の記念日で、全国で(あるいは全欧米でと言った方が良いか)追悼式が行われる。上のAxeに掲げられている赤い花輪はポピー、リメンブランスデイの習慣である。

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(補足あるいは蛇足)

*:この鉄道のカマの名前は全て3文字で、川の名前を採用している。

**:要はシリンダーからの排気で如何に効率よく通風排煙させるかという工夫で、南アの有名なレッドデヴィル(26型<<25型からの改造)を設計したウォーデイルWardaleの本に説明があるのですが、ブログで解説するのはもっと勉強してからとさせていただきます。しかし文字の非常に細かい本で、今後読めるか心配になる。

*3:Top and tail 頭と尻尾、つまり先頭と最後尾に機関車を附けること。日本の鉄はこれをプッシュプルと言うが、英語のpush-pullは編成中の機関車の位置を附け替えずにどちらの方向にも運転することをいう。つまり機関車が最後尾になった時は、全体が推進運転になる。これは欧米の運転方式では多く見られる。英語は英語、日本語は日本語であるが、要注意ではある。


*4;フランスのコンピエーニュの森に置かれた客車(ワゴン・リの食堂車)で調印式が行われた。のち客車は1940年の休戦協定締結時にも使用されたが、独逸に持ち去られ破壊された(失火説もあり)

現在同地にはレプリカがあるとのことであるが、鍋屋町は未見である。

次は2回目の訪問時の写真を見ていただきます。続く

あまらぼ鍋屋町

2018年11月30日 (金)

蒸気動車試運転

ホムトフ機関区(前記事で書いた通り博物館側のことである)での撮影中に汽笛が聞こえた。特別列車を見落としたか?それとも鉄道側でなにか蒸機の作業でもあるのか?見に行くべきか迷ったが、館内の静態保存の撮影を続けた。ここに再度来る余裕は無いので、中途半端に終わらせたくない。そもそも事前許可なく機関区側に立ち入りできるかどうか、、、多分難しい。

思いのほか長くかかった撮影を終えてから、PCの画面をノンビリ見ている手持無沙汰の受附氏に汽笛のことを訊ねたが、壁の向こう側!のことは一向に関心が無く何も知らなかった。しかし外に出ると汽笛の主が居た。


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ČSDでは M 124.001であるが、元はkkStB 1.001である。

博物館のマークが正面にデカデカと掲げられている。以前の写真ではこれはないので近年の取附けだろう。

リングホッファRinghoffer1903年に製造した。*

Ringhofferはプラハのスミーホフの機械メーカで最初は醸造機器や製糖機械から始め、のちに客貨車やトラムの製造を行った。このためであろうこのM 124.001の製番は65168と非常に大きい。

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こんな小さい車体でも2等車室と3等車室に分れている。残念ながら内部を見ることはできなかった。


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車内に設置された縦型ボイラはコマレク
Maschinenfabrik Komarek製で、コマレク蒸気動車とも呼ばれる。コマレクはウィーンのファヴォリーテンFavoriten10区)にあったボイラや蒸気機関のメーカである。操業開始年は諸説あるが1800年代末期で1909年頃に廃業したらしい。

当初はパワー不足で、1906年にボイラを取替えている。


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ご覧のようにシングルドライヴァで、瓣装置はジョイ式である。蒸気機関は複式で、こちら側が低圧シリンダである。

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日陰で分りにくいが、こちら側(進行方向右側)が高圧シリンダである。

当初はカメニツキー・シェノフ-チェスカー・リーパ・ストジェルニツェKamenický Šenov–Česká Lípa střelnice の路線に投入された。しかし、1979年に廃止されたこの路線は勾配区間であった。この蒸気動車はボイラ換装後もまだ出力不足であったのか、あるいはシングルドライヴァであることが影響したのか、すぐに他の線で使用された。

係員たちはのんびりと仕事を進めているような、休憩しているような、で、一向に次の運転が始まらない。次の日の撮影は朝一番の列車で出かけなくてはならないので(この成果が先に書いたムラデェヨフ産業鉄道のエンゲルト機撮影である)、走行シーンの撮影はまたの機会にすることとしてプラハに戻った。

*:1904年としている資料もある。19042月に(初回かどうかは不明だが)試運転をしたとの記載もあるので、どの時点で工場を離れたか、どの時点で納入受取されたか、などの解釈の相違ではないかと思われる。

チェコはとりあえず終えて(実際の行程通りに)英国に戻りましょう

あまらぼ鍋屋町

2018年11月28日 (水)

ホムトフ機関区

ホムトフChomutovはプラハの北西60kmほどにある町である。ドイツ国境まで10kmほどで、プラハよりはケムニッツ(情けないことに鍋屋町にはいまだにカール・マルクス・シュタットという強烈な名前の方がピンとくる)の方が直線距離では近いくらいである。

ここにホムトフ機関区Železniční depozitář Chomutovがあり、約100輌の車輛(うち蒸気機関車が20輌餘り)保管されている。保管には扇形庫を利用していて、見学可能な蒸機は全て轉車台とは反対側に頭を揃えている。

この保管区域は前々回書いた国立技術博物館が管理していて、開館は木曜から日曜である。見学者は(通常は)庫外のチェコ鉄道が運営管理する区域には出られない。さらに建物内(保管区域)に柵があり、その先の轉車台側は補修のために区分してあり、見学者はそこから先は行けない。

見えるところに居る蒸機だけは一応撮影してきたが、柵の向こうにつまり轉車台側にあるものもあり、それらはキチンと撮れてはいない。現場の説明板はチェコ語、独逸語、英語となっていたので、それを手掛かりにいろいろと調べてみた。ただ静態保存機を延々と紹介しても退屈なブログがますます退屈になるので、ここではごく一部だけに留めよう。

入口に假置きしてあるカマ
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Poldi no.7との愛称がある。工場名(元は人名か?)からと推測されるが、調べきれなかった。 800mmゲージ 0-4-0T

1937年 ČKD Českomoravská-Kolben-Daněk)製 製番1724

クラドノKladnoのプラハ製鉄所用に製造された。800B50型と呼ばれた11輌の一つ。連結器の更に前に張り出しているビームからみて推進運転専用で使われたのかもしれないが詳細は分らない。

入っていくと最初の展示はこの蒸気ロータリー
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チェコではSM-01と呼ばれた。DRDeutsche Reichsbahn)では727541のち775002とされた。1943年製 ヘンシェルの供給であるが、下請けに多く任せていたとのこと。その具体的な輌数や部分は不明である。

DR当時はブレスラウBreslau(現在はポーランドのヴロツワフWrocław)配属であったが、ブレスラウがズデーテン地方も管轄していたので第二次大戦の終了後チェコのものとなった。リベレツ地方Liberecký kraj*で使用された。

5mまでの積雪に対応と説明板にあった。日本より雪質が軽いだろうが、車高より高いのにホンマに大丈夫?という感はする。 

422.025 (kkStB die kaiserlich-königlichen Staatsbahnen帝立王立国有鉄道(オーストリア)では178.49
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178の最初の4輌はクラウス・リンツで1900年に製造
当機は1907První Česko-moravská továrna na stroje v Praze (チェコ-モラヴィア第一機械製作所在プラハ、ČKDの前身)の製造

ローカル線用のカマであるがサイドタンクにArcivévoda Karlとちょっとモッタイナイ立派な愛称のプレートがある。Arcivévodaはオーストリアの大公のことでカレル大公、独語でErzherzog Karl、英語でArchduke Charles(うーむ<<偏見!)の貴顕は何人か居る。

最も有名なのはナポレオン時代のオーストリア皇族で軍人カール・フォン・エスターライヒであるが、製造年代から考えると最後のオーストリア皇帝カールI世(1907年当時に皇帝は大伯父のフランツ・ヨーゼフI世でカール大公は皇位継承2位であった)であろう**

カマの方であるが1960年引退だが77年に動態復帰し2002年まで動いたとのこと

322.032 

ウースティー・テプリツェÚstí Teplice鉄道 IIIa
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1870年ハルトマンHartmann製 

この私鉄は石炭輸送を目的として発足したが、旅客営業も行った。IIIa9輌製造され、旅客営業に使用されたが、1924年以降のČSDでは入換機としての使用であった。

このカマはDonnersbergと名附けられたが、これはテプリツェの南東にある山ミレショフカMilešovkaの独逸名である。彫刻まで施された優美なスプラッシャーが印象的であるが、これをランボードとして使うのは面倒だっただろうと思う。

残念ながら展示されている多くの機関車はロッドの一部を外されたままで、これもその一つである。人手が無くて、搬入時其の儘なのだろうか、あるいは他の場所での運転(この機関車はもう無理だが)や展示に備えて敢えてとり附けないのか。

U47.001
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760mmゲージ 1907年ヘンシェル製0-4-4-0T マレー・タンク機である。***

元はセルビア国鉄用でDonja ĆuprijaRavna Reka線(ドニャ・チュプリヤ-ラヴナ・レカ)に配置された。チェコのインジフーフ・フラデツ鉄道には第一次大戦後の1921年に配置された、1961年まで使用され、65年に国立技術博物館入りしたが、92年から14年まで再度このナロー路線で使用された。同鉄道は24ČSD に編入、98年民営化Jindřichohradecké místní dráhy(JHMD インジフーフ・フラデツ地方鉄道)となっている。

(蛇足)

*:クライKrajには適切に対応する英訳、独訳が無いようで日本語訳も一定しない。チェコの地域区分・行政単位の最高位である。リベレツ・クライの主要都市はチェスカー・リーパČeská Lípa、リベレツLiberecなど。

**:カールI世の皇后ツィタは長生きした。王権神授説を信じ、退位を認めない頑固な婆さん(失礼)が居るというのを昔どこかで読んだ。死後にやっとオーストリアに戻ることができ、ウィーンのシュテファン大聖堂で葬儀が営まれた(1989)が、反対が非常に強かった。20世紀もそろそろ先が見えてきたころにハップスブルク、ブルボン、、、、でニュースに驚いた記憶がある。

***:現場の英語解説は独逸語からの重訳と推察される。というのはその英文ではこれがテンダー機となっているからである。独逸語のTenderlokomotiveをウッカリそのまま轉用したものであろう。独逸語のテンダーロコはテンダーを備えている機関車という意味で、英語や日本語などではタンク機である。独逸語でテンダー機はSchleptenderlokomotive (テンダーを引張る機関車)という。

また独逸語のStrecke(区間、路線)を英語でRailwayと訳している箇所もあり、英語だけを見ると判断を誤りそうだ。どんな国でも現地語(ここではチェコ語)での記述が一番充実し信頼できるであろうから、少しでもわかると良いのだが。歴史的経緯から独逸語での記述は英語よりは信頼できるだろう。

つづく

あまらぼ鍋屋町

2018年11月13日 (火)

国立技術博物館(プラハ)の蒸機

チェコは前々回とその前に書いたムラデェヨフ産業鉄道Mladějovská průmyslová dráha訪問が主な目的であったが、ギリギリの日程でチェコに往復しても英国での撮影も中途半端になるのでチェコ滞在には少し余裕を持たせた。しかし他に訪問可能な蒸機運転の鉄道は既に訪問したことのあるインジフーフ・フラデツ地方鉄道Jindřichohradecké místní dráhy だけであった。しかも数年前から本来のカマではなくポーランドから持って来た(私は相応しくないと思う)Px48が主に動いている。

それで、博物館2箇所を訪問することとした。

まずはプラハの国立技術博物館Národní technické muzeumである。プラハ本駅(中央駅)Praha hlavní nádražíから地下鉄+路面電車(歩いてもしれている)で簡単に行ける。路面電車だけでも行けるが、日本と違って都市交通は乗換自由であるのでこうしても交通費節約にはならない。

ここは7,8輌の蒸機を所有しているとも聞くが、館内に展示してあるのは以下の4輌のみである。

蒸機は大ホールの一階(日米中での呼び方で)にいるが、自動車など他の展示物も多い。天井からは小型軽量の航空関係の展示が吊り下げられている。ホール四周には上まで小物の展示を伴う歩廊があるので、そこからは少し遠いが蒸機の上部も見られる。博物館にしても他の施設にしても、カマの上部の観察が可能なところは意外と少ない。鉄道模型はどうしても上から見ることが多いので、模型好きには貴重な場と言える。

入口を入ったところからの光景はこれである。
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右の機関車は375.007 kkStB*では 310.15 

kkStB (k.k. Staatsbahnen)は日本語訳をどうするのがよいのか、帝立王立国有鉄道か。ともかくオーストリア=ハンガリー帝国のオーストリア側国営鉄道であった。

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輪配置264(アドリアティックAdriatic)の複式4気筒機、使用炭が良くないので大きな火室を採用し従輪2軸としている。1911 První Česko-moravská továrna na stroje v Praze 製番.390 日本語定訳があるのかどうか分らないが、意味としてはチェコ-モラヴィア第一機械製作所在プラハである。ČKDの前身にあたる。

優美な大きな動輪の径は2140mmあり、最高速度100km/h、ゲルスドルフKarl Gölsdorfの設計である。

愛称Hrbounとある、何かと調べてみたらネコ背。この呼び方は知らなかったが、たしかにサイドヴューは獲物に跳びかかろうとする猫族の感じはある。

テンダーは821.039 (1915年製)

375.007の背後にはこれがいる。
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800mm
ゲージ クラウス・ミュンヘンの1884年製 0-4-0WT(ウェルタンク**)

1924年にボイラ換装されている。クラドノKladnoの製鉄所で使用された。クラドノはプラハの北西25kmほどにある都市である。レストアされて1986年ヴァンクーヴァの万博でも展示されたとのこと。

左の機関車は252.008 
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オーストリア北西鉄道Rakouská severozápadní dráha(独逸語Österreichische Nordwestbahn, ÖNWB)の4-4-0急客機、ÖNWBでは Ib型、kkStBでは 301型 最高速度は80km/h

1881年ヴィーナー・ノイシュタット製Wiener Neustädter Lokomotivfabrik Aktien Gesellschaft der Lokomotiv-Fabrik vormals G. Sigl 製番2586
テンダー412.008はフローリスドルフFlorisdorf 1892年製

252.008の左手前(最初の写真では見えない位置)にはエンゲルト機がいる。
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シュチェフラト鉄道Buštěhradská dráha(独逸語:Buschtěhrader EisenbahngesellschaftBEB)のI.103

ヴィーン・ラーブ鉄道Wien-Raaber Bahn(のちOstbahn)の自社工場製1855年製 製番295 瓣装置はグーチ式Gooch
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名称
Kladnoについては上述の都市名からであろう。このカマはここからプラハに石炭を運ぶのに活躍した。現存するチェコ最古の蒸気機関車である。

(蛇足)
*:独逸語では形容詞は小文字で書き始めるので、略号でもそれを踏襲するのが通例である。固有名詞から派生した形容詞でも小文字で書き始めるので、この点は英語と異なる。
**:ウェルwellとは井戸のこと。日本では何故かボトムタンクとも言う。インド人が英語で書いた本で一度だけだがボトムタンクという表記を見たことがあるが、まさかそれを真似たわけではなかろう。

写真の貼附け忘れを追加しました。(11月14日)

あまらぼ鍋屋町

2018年11月 6日 (火)

エンゲルト 沿線撮影

庫の近くで長居しすぎたので、最初は発車を撮影することにしたが、爆煙(暴煙?)で陰ってしまった。
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撮影ツアーなら貨車、ナベトロを牽引させて往時の姿を再現するのだが、通常の運転時は観光客を満載したオープン客車である。残念だが贅沢を言っている場合ではなかった。ただ古ぼけた塗色なので社会主義時代の観光列車を多少思わせるのが救いである。

前回、簡単に「ほぼ南に向けて、、、」と書いたが、丘陵地帯なので実際には勾配緩和のためにムラデェヨフ・ナ・モラヴィェMladějov na Moravěからは北に向けて出て、あとすぐ大きなカーヴで180度反転して南に向かう線形になっている。 
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反転して南を向いたところである。

車での撮影なら終点附近などいろいろ行けたのであろうが、徒歩では場所は限られる。Mさんに教えていただいた地点を中心に見て廻った。結果として撮影地点は全て次の駅(停留所)Vekslヴェクスルとの間となった。その先も行ってはみたがかなりの距離に亘って森の中で撮影しにくいし、さらに先の開けたところでは撮影後の帰途に暗くなることを懼れた為である。高緯度なので日没後も急激には暗くならないので安全策を取りすぎたのかもしれないが。

帰路はテンダーファーストで、一本目の帰路ではご覧いただくに値する写真は撮れなかった。

この日は3往復の運転で―ただし最終列車は途中で折り返し―あったが、一番光線状態も良く、撮影地選定に余裕のある2本目の列車になんと小型のディーゼル機関車の補機が、しかも機関車の次位に、附いた。これもご覧いただくに値しない。お客さんが多いのはご同慶の限りであるが、、、、

現状ではハードディスクの塵である。魚眼レンズで撮った写真でも周辺を真直ぐにする修正ソフトが登場しているが、ディーゼル機関車を蒸気機関車に書き換えるソフトは、、、、、無理でしょうね。折を見てせめて目立たない色に塗り替えましょう。

その帰路であるがディーゼルのスイッチャ-は単機廻送で先に戻り、蒸機だけの牽引であった。
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最終の列車、本来は他の場所を豫定していたが、
2本目の位置で再履修とした。山影がぎりぎりまで伸びてしまったので、立ち位置は当初予定とかなり異なるが。
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その折り返しである。夏時間でも9月の終わりともなれば太陽は丘に隠れてしまった。
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そして180度反転して駅に入る直前である。
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列車がムラデェヨフ・ナ・モラヴィェに戻った後に、その都度構内と博物館に転用されている元の庫らしき建物内の見学ツアーがあった。その最終回に途中から加わった。チェコ語は綴りの読み方を入門書で勉強しただけなので説明は聞いても理解できなかったが、親切な若い見学者が一部を英語で補ってくれた。
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あまらぼ鍋屋町

2018年11月 5日 (月)

エンゲルト Engerth locomotive

チェコの首都プラハPraha*の東約100kmにムラデェヨフ・ナ・モラヴィェMladějov na Moravěという小さな村がある**。ここから600ミリゲージのムラデェヨフ産業鉄道*3Mladějovská průmyslová dráha 約18kmがほぼ南に向けて伸びている。

石炭、耐火粘土など各種のもの運んだのでこういう名称なのであろう。第一次大戦後1920年には鉄道の建設は終わっていたようだが、認可は24年まで持ち越されたそうだ。

1991年に閉止され、その後は保存鉄道になった。

此処にはエンゲルトEngerth locomotiveがいてヨーロッパのファンには大いに注目されていたし、日本からの訪問者も結構いらっしゃったと思う。近年独逸からの撮影ツアーも何度かあったが日程が合わず、鍋屋町は訪問の機会を逃していた。

ところがこのエンゲルトの運転(通常使用)が今年限りになりそうだということで、英国旅行の日程を急遽一部変更して訪問した。保存鉄道で通常はディーゼル機関車使用であり、蒸機を使用する日はごく限られている。

現在ここには3台の蒸気機関車が残っている。

訪問時に動いていたのは1号機であった。

クラウスリンツの1920年製
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この連接機関車はヴィルヘルム・フォン・エンゲルト*4の考案によるもので、オーストリアのゼンメリング鉄道Semmeringbahnでの使用を目的に開発された。

テンダー(と機関車本体)が連接構造になっていて、機関車側の主台枠に繋がっている。これによりテンダーの重量のかなりの部分を機関車側に掛け、動輪上重量を増大させている。

ただし、最初のゼンメリング鉄道用のものはロッドが中間軸を駆動し、それが歯車で前後の全動軸に伝達される構造であった。しかしこの歯車駆動、全軸駆動は当時の工作精度も手傳って実用面では問題が多く、後には現在みられる機関車のようにテンダーの連接構造だけが採用されていくことになった。

連接構造のためにキャブ内はこのようになっている。
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つまり床も機関車側とテンダー側に分れていて、相対的に動く。機関士やカマ焚きが立つ床はテンダー側である。

同様のエンゲルト機(テンダー側は無動力)はマリアツェル鉄道、ピンツガウ地方鉄道*5、など++(いずれもオーストリア)でも運転されている。なお、ツィラタール鉄道*6にも近年ボスニアから似た外観の機関車が導入され、こちらばかり運転されているが、これは純粋にテンダー機である。++

 

庫内には5号機がいた。撮影チャーターではないので外で撮ることは叶わなかったが、ストロボで苦労して撮影していたら、電燈を点けてくださった。

クラウスリンツの1929年製

並んだ状態の写真は撮れなかったので分りにくいが、1号機と較べるとかなり大きい。
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壁ギリギリで右側はマトモな写真は撮れなかったので、ここに挙げることは省略する。

来年からはこのBS80型が使用される予定のことである。
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作業中で機械工具類が多く、これ以上サイドに寄れなかった。4号機(第2代)であるが現地では銘板や表記を確認できなかった。

1951 ČKD (Českomoravská-Kolben-Daněk*7)

走行写真は次回にします。

最後になりましたが、海外鉄道研究会のMさんに現地の地図、撮影適地などを教えていただきました。ここに記して感謝申し上げます。

(以下蛇足)

*:英語ではPrague

**:近くの比較的大きな町としてはチェスカー・トシェボヴァーČeská Třebováがあり、まともなホテルがある。鉄道の少し南のモラフスカー・トシェボヴァーMoravská Třebováの街にもホテルがあるので、車で行くならこちらの方が便利であろう。ペーパードライヴァの私は荷物と日程の都合でプラハに宿をとり、出庫時の情景を撮影するため夜明け前の列車で出て深夜の列車で戾った。

*3:坐りの悪い訳語であるが、当該鉄道のウェブサイトの英語ページがMladějov industrial railwayとしているので(独逸語も同様)、それに従った。

*4:Wilhelm Freiherr von Engerth,  ヴィルヘルム・フォン・エンゲルト男爵

シレジア(現ポーランド)生まれのオーストリアの土木建築および機械技術者 鉄道ではゼンメリング鉄道、StEGdie Österreichisch-ungarische Staatseisenbahn-Gesellschaft)などで活躍したが、ドナウ川の治水、ウィーン世界博覧会など広く従事し貴族院議員にも選ばれ、爵位を得た。

5:これも少し坐りの悪い訳語と思う。(「富山地方鉄道」ファンの皆さん、ごめんなさい)

独逸語ではPinzgauer Lokalbahnピンツガウアー・ロカールバーン。独逸語では英語と強勢位置が違うので、ローカルではなくロカールである。

*6:Zillertalbahn、チラタールという表記も見るが、独逸語のZは英語で言えばTSの音であり、CHの音ではない。昔の日本人はtsuは発音できてもtsatsiなどは発音できなかったのでchachiなどで代用してきた。定着してしまった例にはチューリッヒZürich,(ツューリッヒ)があり、同市のウェブサイト日本語ページもチュとしている。しかし今日の日本人は発音できるので、定着してしまったものは仕方ないにせよ、この鉄道はツィラタールと表記する方がベターと思う。鉄道関係で同様の例にはツィタウZittauなどがある。チでも否定するつもりはないが、年寄り臭い。

餘談になるが、独逸語では語頭がzすなわち英語のts音で始まる語が大変多いが、兄弟言語である英語にはtsで始まる(一般の)単語は皆無であった。一般化した英単語でtsで始まる語は日本語からの輸入のTSUNAMI(津波)が最初と言える。

*7:チェコスロヴァキア、現チェコ最大のメーカ・エンジニアリング会社(の一つ)。路面電車ファンにはタトラのメーカとしてお馴染みだろう。

++ 原文にカンチガイによる誤りがありましたので訂正しました。メイルでご指摘をいただきました。感謝いたします。

ヴァルトフィアテル鉄道(Waldviertelbahn)にエンゲルトがあるとご教示いただいきましたが鍋屋町は未見です。

あまらぼ鍋屋町

2018年10月31日 (水)

セヴァーンヴァレー鉄道ガーラ

前回終りで次は他の鉄道に移るようなことを書いてしまったが一回留まります。というのはオートトレインだけをここで撮影したわけではないからである。ただし全部の機関車どころか主なものを紹介するだけでも何回もかかる。それでガーラへの訪問機Visiting Locomotivesの写真を載せておこう。ナロー好きの鍋屋町であるが、こういう蒸機が決して嫌いなわけではない。

ダッチェス・オヴ・サザーランド 6233

ロンドン・ミッドランド・アンド・スコティッシュ鉄道LMSのコロネーション・クラスCoronation Class4気筒急客用パシフィック(計38輌)

最初と2回目のバッチは流線型で登場した。 LMSクルー工場製、当機Duchess of Sutherland3回目のバッチ1938年製で当初から非流線型である。個人的には流線型は無理矢理感(ロンドン・ノースイースタン鉄道LNERA4の登場に刺戟されて変更した)がして、この非流線型の方が好きである。デフレクター(当機へは後附け)も悪くない。

そもそも俯瞰撮影が好きであるし、乗客が窓から顔やカメラを出しているのも気に入らないので遠目の写真が殆どになったが、一枚くらいは近接での7:3写真を撮るべきだったかと反省している。

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ビュードリーBewdley → キダーミンスターKidderminster

色の揃ったLMS客車を牽いて雲と競争しながらやってきた。小さくて判りにくいが、ダブルチムニーで煙の吹き出しが前後に幅があることが見て取れる。(登場時はシングルであったが間もなく換装された)

ブリタニア 70000

ブリタニアクラス(BR Standard Class 755輌の初号機 1951 BRクルー工場製

2気筒パシフィックの客貨両用機で、軽量化が図られていて走行可能な路線は多い。また客貨両用機故に動輪径も少し押さえられている(6フィート2インチ=1880mm

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直線を突っ走るさまをもう少しサイドから撮ったのをご覧いただくが本来だろうが、どれも窓から顔やカメラが出ているのが非常に目立つ。それで、ここでは辛うじて編成後部まで見えるカーヴで雨中の近接撮影をご覧いただく。ブログに載せる縮小写真で雨粒がわかるかどうか?そんな天気でも残念ながら数人が窓から顔を出している。

ノースウッド・ホールトNorthwood Halt → ビュードリーBewdle

もう一枚、前回ご紹介したヴィクトリアブリッジにて。

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あまらぼ鍋屋町

2018年10月27日 (土)

オートトレインAutotrain その4

珍しい仕組みのご紹介が先になってしまったので、ここで個々の車輛の紹介である。

まず機関車であるが
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アーリーArleyにて。

車輪配置0-4-2T  グレート・ウェスタン鉄道(GWR 1400 Classである。1932年の導入時は4800クラスと呼ばれたが46年に改番された。オートトレイン仕様になっていないものは5800クラスで、こちらの方が用途廃止が早かった。全機同鉄道のスウィンドン工場製である。この14501935年製である。

このセヴァーンヴァレー鉄道に来る前は保存鉄道のDean Forest Ryに居た。

セヴァーンヴァレー鉄道では他の機関車と較べてぐっと小型で非力である故に通常の客車列車には使用されていない。

次は制禦客車
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次の写真とともにキダーミンスターKidderminster  ビュードリーBewdley

GWR178 同鉄道のスウィンドン工場 1930年製

1968年にセヴァーンヴァレー鉄道に来たが、その後他の保存鉄道を渡り歩いて(走って)いる。2004年に全面レストアされ14年に再度セヴァーンヴァレー鉄道に来た。


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GWR 238  現在はChaffinchという愛称が附いている。同鉄道のスウィンドン工場 1954年製と新しい。ごらんのようにマルーン一色であるが、これは60年代のBRの塗色。一方上の178GWRの塗色である。72年頃には他鉄道で保存車輌となっていたようだ。これも渡り歩いて、11年にレストア完了、14年に"再度″ここに来た。

Chaffinchとは何かと調べてみたら鳥の名前、ズアオアトリという和名を持つが日本には棲息していないそうだ。動植物の名前は假名で書くことが慫慂?実態は強制?されているが、鍋屋町はこれは馬鹿馬鹿しい、止めるべきと思う。「ズアオ」ではなんのことか分らないが、「頭青」と書けば特徴が一目瞭然ではないか。予備知識がなくてもある程度の想像がつく。假名書きはアトリ(獦子鳥または花鶏)のように漢字にしにくいものだけでよい。(「あ」つまる(集まる)「鳥」、、、らしい、ホンマかいな)

側線(餘談)に入り込んだので本線に戻ると、GWRは末期に全てのautocoach(オートトレインの制禦客車)に名前を附けようとしたが、ごく一部に留まり、この238の愛称ものちに附けられたものである。また、その色と蒸機を常に連れていることからかコーヒーポットと呼ばれたそうである。*

走行写真をもう少しご覧いただくことにしよう

今回のガーラでは、オートトレインの走行区間は始発駅キダーミンスターKidderminster3駅目(Haltを勘定に入れて)のアーリーArley間のみであり、しかも両側に制禦客車を附けた編成はキダーミンスターと次駅ビュードリーBewdley間だけで走り、ビュードリーからアーリーの間では片側(北側)に178を附けただけの編成で早朝と午後遅くのみ走行しただけであった。

ガーラには多くの鉄道ファンが訪れ、乗車を楽しむので78輌の客車を連ねた列車でも殆どがかなりの乗車率になる。そこへたった1、2輌の客車を附けたオートトレインを投入すると大混乱になるので区間や時間帯を限定したのであろう。

ならばガーラ以外の時に訪問すれば、、、そうは問屋が卸さない。オートトレインは特別の行事の時のみの走行である。鍋屋町も今まで車輛は眺めていたが走行を見たのは今回が初めてである。

ヴィクトリアブリッジ

ビュードリー(停車場を入れればノースウッド・ホールトNorthwood Halt)とアーリーの間にあり、ワンスパンでセヴァーン川を少し斜めに南東から北西へ跨ぐ美しい橋である。架橋工事は1859年から61年に行われ、当時は鋳鉄製として最長スパンの橋であった。2003から4年に大補修がなされたとのこと。なおセヴァーン川、この辺りで見ても大した川に見えないが、実はイギリス(グレートブリテン)で最長、354kmある大河である。

少し離れた丘の上から見下ろし撮影をするともっと美しいだろうと思うのだが、橋の袂の牧草地に釣り人が始終車を止めていてそれが邪魔になる。ならばそこまで車で入れる楽な撮影地かというとそうではなく、牧草地は立入禁止である。釣り人は牧草地所有者の友人やその仲間なのであろう。鉄は駅近くの駐車場からパブリックフットパスを歩くしかないが、幸いなことに1kmほどである。

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早朝のアーリー発キダーミンスター行である。橋の北東側に陽があたる写真は初めて撮影できた。

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夕方のキダーミンスター発アーリー行きである。単に強風で煙が前に流れているだけに見える。バンカーファーストで客車を推しているのだが、、、、グチャグチャと説明しないと分らない写真は不合格かな。

次に

ビュードリー→キダーミンスター
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今回訪問ではまことに英国らしい天候の日が続き、晴れていたかと思うと突如激しい吹き降りになり(3回前の同区間の写真)、諦めて帰ろうかと思うと晴れてくる、、、の繰り返しであった。その晴れ間である

両側に制禦客車を附けた編成の走行写真をもっと撮りたかった、、、、、、再訪かな?

餘談

*オーストラリアのコーヒーポットについては 

http://dampflok.cocolog-nifty.com/blog/2016/09/4coffee-pot-a6d.html

以後3回で訪問記を書いた。

次は何を書きましょうか

あまらぼ鍋屋町

2018年10月26日 (金)

オートトレインAutotrain その3

加減瓣、ブレーキ、汽笛、これら3つの操作はすべて機械的なものであるが、ブレーキは空気圧を傳達すればよいのだから配管は曲げてもあまり支障ないし、汽笛吹鳴の紐も比較的自由に形状を変えて機関車に傳達できる。しかし加減瓣ハンドルの位置情報の傳達は厄介である。

加減瓣ハンドルの位置により繋がっているシャフト(黄色の矢印)が上下し、これが床下にある傳達軸を回転させる。
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この軸は制禦客車の下を通り(黄色の矢印)
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制禦客車と機関車の間を次のように傳えられ(黄色の矢印が傳達軸)

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機関車の運転台下部で今度は逆にシャフトを上下させ、これが機関車の加減瓣ハンドルを動かす。
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ここでも黄色の矢印で示す。

蒸気機関車の運転操作に関して多少でもご存知の方は、逆転機操作はどうするのか?と疑問を抱かれるであろう。制禦客車に逆転機のレヴァーは来ていない。逆転機の役割は前進後進を切り替えるだけではなく、シリンダーへの給排気のタイミングを変え速度調整を補助する。また蒸気使用量の節約も図れる。産業用の鉄道では逆転機の微妙な操作はしない乱暴な運転をするところもないではない*が、英国の一般鉄道でそんなことはありえない。

実は逆転機操作は機関車に乗っている罐焚き(機関助士)に任されている。従って効率的な運転を行うには路線を熟知している罐焚きが必要である。

念の為に、逆転機ハンドルは上の写真の水色矢印である。

制禦客車は蒸気機関車の片側だけでも良いし、両側に附けてもよい。但し、制禦客車からの制禦は機械的な伝達に頼っているので、制禦客車を2台以上片側に連ねるのは実用的ではない。制禦動作のタイムラグが大きくなるし信頼性も低下するだろう。

餘談

*:もう時効として書くが、キューバの製糖工場で標準軌のボールドウィンの(キューバとしては)中型機にヤミ添乗させてもらったことがある。プント・デ・アコーピオ(punto de acopio、サトウキビの集荷場)から国鉄線を経て工場まで逆転機には触れず加減弁だけで速度制禦していたので驚いた。

づく

あまらぼ鍋屋町

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