海外

2017年11月 9日 (木)

シュプレーヴァルト博物館

イギリスばかり続いているので目先を変えてドイツ訪問について少し書きます。

ベルリンとハンブルクの間にある保存鉄道で2日間のチャーター運転がありそれに参加した。これについては後日書きます。しかしチャーター運転は朝早くからなので現地に宿泊する必要があり、ベルリンには前日入った。それでついでに小さな博物館 Spreewald Mueum Lübbenauに行った。ベルリンから南東へ車で一時間足らずのリュッベナウLübbenauの街にある。友人が車で連れて行ってくれたので公共交通機関での行き方はわからない。この地方にもメータゲージのナロー鉄道網があったが、当然ながら無くなってしまった。

この博物館はこの地方の歴史風俗を展示するもので、そのメータゲージ鉄道関係はついでの展示である。博物館外観はこの通りである。

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さて博物館の中をウロウロしたが目当ての機関車が見当たらない。上の写真の右に見えるが近代的な別館が横にあり、機関車と客車はそこにあった。

機関車は99 5703 1897年ホーエンツォレルン Hohenzollern製、 製番940である。

当初は3号機、Cottbusコットブスと名づけられていた。

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カマの左側には大きな空気貯めが後附けされている。左側は引きが取れないから写真は前がちになる。

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右側には餘計なものが展示してある他キャブ内への階段まで附いている。キャブ内の機器側は全面的に透明のプラスティック板で囲われていて、これもまた写真が撮りにくい。

客車は903-201 1897年ヴェルダウWerdau
元のシュプレーヴァルト鉄道では105番、Heberleinbremseヘーバーラインブレムゼ(紐ブレーキ)を採用していた。
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荷物合造車である。荷物室側のエンドはこの通り。
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とにかく側面を写そうにも引きが取れない。そこへ餘計な人形まである。

ウェブサイトにこの二つはそれぞれの写真が出ているが、ごく普通に斜めから撮ってあるだけで、まさか上下二段積の展示になっているとは夢にも思わなかった
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下から客車下部を見上げる
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2階からカマを見下ろす。
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最盛期の路線網としてはLübbenリュッベンから南東にCottbusコットブスまでの51.8km、途中のStraupitzシュトラウピッツから北東へGoyatzゴヤッツまでの13.8km、シュトラウピッツの一つ東のByhlenビーレンから北東へYamitzヤーミッツまでの19.1kmが現地で求めた本*に出ている。

ごく大雑把に歴史をたどると次の通りである。
1896年前身の会社設立
1897年公式建設開始
1898年最初の区間開業
東独時代は当然DRに組み入れられた。
1970年旅客営業終了
1983年貨物営業終了

*参考文献:Die Spreewaldbahn –Die Geschichte der legendären Schmalspurbahn- by Erich Preuß transpress

オマケ
その夜の安宿でハローウィーンのtrick or treatを始めて見た。ハローウィンは最近日本でも楽しむ人がいるようだが、これは日本語には何と訳しているのだろうか?直訳すれば「悪戯か、もてなしか」なのだが、子供たちが家々を廻ってお菓子をねだる行事である。
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あまらぼ鍋屋町

 


 

 

2017年10月20日 (金)

闘う文豪とナチス・ドイツ

副題は-トーマス・マンの亡命日記- 池内 紀 中公新書 20178

その国あるいはその勢力範囲の蒸機や鉄道に興味を抱くと、附随してそこの文化と言語にも興味がわいてくる。存じ上げている鉄道ファンの中にはこの本来附随の筈の方が圧倒的に優勢になり、ジャワ島の製糖線蒸機よりもインドネシアに熱中した方や、ミャンマーの蒸機が事実上なくなる前にミャンマー自体に憑かれてしまった方がいらっしゃるが、私はそこまでにはならない。まあ興味は持ち続けるが。

それで私自身のドイツに関してであるが、友人に連れられて行った蒸機現役最末期の東独旅行が最初であった。関連してドイツ語とドイツ文化圏への興味も途切れ途切れながらも持ち続けている。私淑する先生は小塩節さんとこの本の著者である池内紀さんである。お二人とも読みやすい、しかし内容が濃い本を幾つも出されている。

トーマス・マン ノーヴェル文学賞受賞者であるが、そんなものは貰っても貰わなくても今となっては関係ない20世紀の大文豪である。もちろん存命時にはそれが有形無形の、そして良い影響も悪い影響も本人にも周りにも与えていた。

マンは厖大な日記を書いた。初期のものは自ら焼き捨てたが、最後のものは封印し後世に残した。二度目の封印は有能な娘のエーリカが父を葬ったのち558月に行った。開封は758月。エーリカは69年に亡くなっていた。カタリーナ(カトヤ、カーチヤ)夫人の方がずっと長生きした。

小塩節さんは某ラジオ局のドイツ語講座の講師を長く勤められた。私は背伸びして入門篇ではなく、小塩さんの応用篇を聴いたことがある。交流のあったカーチヤ夫人の思い出が語られていた。またエーリカのことを語学の天才とおっしゃった。例えば英語での講演をするときには英訳は彼女の役目だった。しかしそれにとどまらず、有能な秘書、情報収集掛り、助言者であった。

原書は)全32冊、総計5118頁、、、、、激動の時代を証言する、ヨーロッパ精神史の貴重なドキュメント、、、、原書刊行時には「この日記以外に何ひとつ書かなかったと仮定しても、トーマス・マンがその時代のもっとも重要な作家のひとりであるだろうことは疑いを容れない」とも評される (紀伊国屋書店ウェブサイトから、一部省略)

読んでみたいとも思うが、訳書で全10巻。こういう比較はミットモナイが、安くない本で全て買うとヨーロッパへの航空券が買える。まあドイツ文学の学徒でもないから、抄録やエッセンスが分るような解説が無いものかと思っていた。日本人の例で言えば、永井荷風の「断腸亭日常」は岩波版で3000ページに及ぶが、摘録や抄録朗読CDなどがある。そういうものが無いかなあという願望である。

抄録の代わりに読むことにした。碩学かつ名文家の解説であるので関連事象や周辺事情も非常に分り易い。

長くアメリカで後にスイスで亡命生活を送り、ついにドイツに戻ることが無かったことは知ってはいたが、その発端や詳細についてはまるで無知であった。

どうしてヒットラーのような怪物が生まれ、人はどうしてそれの成長をゆるし、あるいはどのようにそれと戦ったのか。

そして現在から振り返るともっと重要な点かと思うが、その怪物が滅びてからもどうしてマンはドイツへ戻らなかったのか?戻れなかったのか?

今の日本のことを考えよう。

ある種の人はドイツは周辺国とそこの人々に詫びたのに、同じ敗戦国なのに日本は、、、、、などと言い続ける。そもそもどこまで真実で、どこからが誇張で言い掛かりであるのか。個々人がどう考えるのか?ドイツではナチにだけ責任を押し附け、一般人は知らん顔を決め込んだのではないのか?

真の民主主義国どうしでは戦争に至った実績は無いと言われる。英国とアルゼンチンがフォークランド戦争(西語ではマルビナス戦争)を戦った時、後者は軍事政権であった。日本の周辺の覇権的な国々や跳ね上がりの国々はどうなのか?近い将来どうなると予想すべきか?アジアでも自由主義、民主主義が発展できるのか?

評論家のお手軽な時勢解説本もそれなりにオモシロイかもしれないが、時には真の闘争者の足跡に思いを致すのも良かろう。手に軽い新書なのに読後感は重い。

あまらぼ鍋屋町

2017年9月27日 (水)

今更ながらロムニー(7)終点ダンジネスまで

ニューロムニーから先は単線である。

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これは車窓からではなく、併行する道路から海側を見た画像である。線路はこの画面とは反対側にある。一体何があったのだろう?残念ながら立入禁止である。

RH&DRは第二次大戦中は軍に接収され、装甲列車も走った。またフランスへの軍事目的のパイプライン建設にも使われた。なおパイプラインは後に撤去された。まあ、70年以上経過しているので、これらとは無関係なのだが。

終点附近は大きなループになっていて、そのループの突端にダンジネス駅Dungenessがある。
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この辺り一帯は自然保護区
Dungeness National Nature Reserveである。


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この地には燈臺が古くから設置されてきた。初代は
1615年製の木製とのことである。画面中央に見える黒いのは1904年完成のもので、現在はもう現役ではない。駅からすぐの所にあり内部見学可能である。

燈臺の右に原子力発電所が見える。燈臺に近い方がダンジネスA、さらにその右(実際の位置は奥)のはダンジネスBと呼ばれる。ダンジネスA1965年運転開始のものでで、現在は運転を終えている。ダンジネスB1983年運転開始で現役である。

ダンジネス駅で列車は暫く停車する。カフェはあるが、ニューロムニーのような鉄道模型や鉄道関係の展示施設は無かった。現在使われているダンジネス燈臺は画面左奥に見える白黒塗分けのもので、1961年製である。

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15インチ軌間の機関車のキャブはこんなのである。


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ダンジネス駅を発車して大きなループを廻り、もとの地に戻って行く。

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注:* ダンジネスA、Bいずれも日本の原子力発電所とは異なる原子炉を使っている。Aはマグノックス型(英国で開発、天然ウラン使用)、Bは改良型ガス冷却炉(低濃縮ウラン使用)である。何れも原理は黒鉛減速、炭酸ガス冷却である。一方、日本のは軽水炉と呼ばれ、軽水減速、軽水冷却である。軽水とは重水に対する言葉で普通の水のことである。なお減速とは原子燃料で効率よく核分裂を継続させるために、核分裂により生じた高速(速すぎる)の中性子の速度を下げることをいう。

RH&DRは終了。次は何にするかな。

あまらぼ鍋屋町

2017年9月24日 (日)

今更ながらロムニー(6)模型レイアウト

前述のようにニューロムニーではかなり停車時間があった。

ここにはビュフェと模型の展示がある.

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列車の発車までわずか数分しか残り時間が無かったが、模型はどんなのがあるかと中に入ってみた。
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小さなショウケースに分けての展示が多そうだ。断定せず曖昧な書き方なのは、とにかくチラチラと見渡しただけなのである。

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せっかくの小さなケースなら模型の前や後ろも観察できるようにしてくれるとアリガタイのだが、、、

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レイアウト*は当然イギリスで最もポピュラーな
OOスケールであろうと思ったのがが、なんとHOスケールである。**
これはハウウィCaptain J.E.P. Howeyのカナダ好きが反映されたものか?それともドーヴァー海峡、海峡トンネルを経て歐州大陸が近いことに因るのか?

にかく、時間が殆どなくてスナップ写真を数枚撮っただけである。是非再訪したい。

注:*毎度言うことだが、こういうのはジオラマと呼ぶのは本来の用法と異なり不適当である。

まあ、言語変化の歴史は「間違い、無教養が勝利していく」宿命にあるのだが。これはボヤきだすとキリが無いので別に書きま<せう>!

** HOスケールは1フット(1フィート)を3.5mmに作る、即ち1/87で歐州やアメリカで主流。

OOスケールは1フットを4mmに作る、即ち1/76でイギリスで主流。ゲージは16.5mmなので、ここはスケールに合わない。

では日本は?HOではありません、OOでもありません。1/80です。でも模型の箱にはHOと書いてあるではないか?ハッキリ言ってインチキ、ウソです。

私が屋下屋を架す解説をするよりも、詳細正確な解説が

https://www.imon.co.jp/models/hovs16.mbr/html

にあります。他にもありますがこれが一番充実していると思います。

あまらぼ鍋屋町

2017年9月21日 (木)

今更ながらロムニー(5)ニューロムニーにて(続)

屋根附きのヤード兼作業場のようなところには珍しいものが居た。残念ながらこれ以上近づけない。写真に見えるようにもっと近い所にもホーム(らしきもの)があるのだが、そこへ渡れないのだ。周りに他の乗客が多いし、管理のしっかりした観光鉄道で無理は禁物である。

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ノーフォークにあるブア・ヴァレー鉄道
Bure Valley Ryからの訪問機visiting engineである。名前はロクサム・ブロードWroxham Broad 1964年製で蒸機の外観のガソリンエンジン機(名称Tracy Jo)として完成したが複雑な経歴をもつ、92年に蒸機2-6-4Tに改造!された。*

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この日の最後近くハイスへ戻る時にすれ違ったが、これを撮りに行くと倫敦の宿へ戻れないので諦めた。やはり鉄道利用の鉄道撮影には制約が多い。

カヴァーを掛けた数台のカマが構内を移動していった。他の状態では、つまりまともな撮影ができなかったもののみご紹介する。

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号機ノーザン・チーフNorthern Chiefである。1号機とともに生前のズボロウスキが発注したものである。GNの外観のパシフィックで製造はやはりDavey Paxman & Co.,1号機とともに1925年製である。RH&DRの本線建設が始まるまではニューロムニー保管されていた。

他の機関車もおおむねそうであるが、ボイラもテンダーも種々の変更の歴史がある。

カヴァーが掛けられているので断言できかねるが、これが8号機ハリケーンと推定される。
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Davey Paxman & Co.
製、登場時は3気筒機のちに2気筒に改造。

注*:Guest Engineering & Maintenance (Ltd)の製造である。

最初はフェアボーン鉄道Fairbourne Railway(ウェイルズ)2年ほど居た。この鉄道は一度訪問したことがあるので、機会があればご紹介したい。

その後各地を転々とし、RH&DRに居たこともある。蒸機への改造はWinson Engineeringというところが担当した。現在は"The No.1 Preservation Group"という団体が所有しBure Valley Ryに貸与である。

あまらぼ鍋屋町

2017年9月18日 (月)

今更ながらロムニー(4)ニューロムニーにて

ハイスから終点ダンジネスへの往路にはニューロムニーでかなりの停車時間があった。乗ってきた列車の機関車は3号機、サザン・メイドSouthern Maid*である。
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Davey Paxman & Co、の製造で1926年製、RH&DRに新製配置された。GNの外観で、ご覧のようにパシフィック(4-6-2)である。塗色は何度も変更されたそうだが現在はRH&DRグリーンと言われるオリジナルの色に戻っている。
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ここで列車交換があり、ハイスへ出て行った列車は7号機タイフーンTyphoonが任に当たっていた。これもパシフィックである。Davey Paxman & Co.1926年製**。
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この7号機と僚機の8号機ハリケーンHurricaneは登場時は3気筒であった。ハウウィはより強力でスムーズな運転ができる機関車が慾しかったのである。しかし、高コストとトラブルによる失点の方が大きく35から36年に2気筒に改造された。第二次大戦後すぐ大型テンダーへ換装、さらに年を置いて除煙板設置、過熱器附き新ボイラへ置換がなされている。もちろん過熱器は他の機関車にも附けられた。
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注*:当時流行ったオペレッタのタイトル、ヒロインと思われる。(済みません、確信ありません)

**:現車銘版による。RH&DRウェブサイトおよび「Locomotives of the RH&DR」by A.R.W.Crowhurst and Richard N. Scarthでは1927年。

颱風なんぞは縁起でもない名称と思えるが、西歐ではハリケーンとともになんとなくロマンティックに響くのだろうか。日本では精々のところ、雷(いかづち)、電光(いなづま)である。(共に関西(カンセイ)鉄道)

つづく

あまらぼ鍋屋町

ご指摘をいただきましたので7号機製造年について修正追記しました。

この相違については今後の勉強とさせていただきます。

2017年9月15日 (金)

今更ながらロムニー(3)ニューロムニーまでの複線

この鉄道はハイスからニューロムニーまで複線である。

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実は列車での訪問の前に仲間と車での沿線撮影に来たのだが、その時はこの附近まで来なかったので、このきれいな菜の花畑の存在は知らなかった。菜の花は年によって植える場所が変わる可能性が大きいが、チャンスがあれば入れて撮影してみたいものだ。これは午後ハイスへ戾る列車からの撮影である。


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RH&DRは単に公共交通機関を目指しただけではなく、高速運転を企図していた。現在の正確な最高速度は知らないが、撮影のために線路近くに立つとけっこう速い。

この機関車は5号機、ハーキュリーズ *(Hercules)、ご覧のように車輪配置4-8-2マウンテンである。Davey Paxman**の1927年製、同716日の開業式の一番列車を牽いたカマである。当初の仕業はバラスト輸送であったが、のちにこの業務から離れ、今の大型テンダーに振替えられた。同形機に6号機のサムソンSamsonがいて、こちらも同様の経歴で、同様の変更がなされている。


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A259号線(ディムシャーチ・ロード)が線路をオーヴァクロスする此処が全線でおそらく一番簡単に上から見下ろす写真が撮れる場所であろう。見えているのはロムニー・ウォーレン停留所 Romney Warren Haltである。

もう少しサイドの見える写真を。なんとかパシフィック(車輪配置4-6-2)であることがわかる。同じオーヴァクロスでニューロムニー方面からの列車を撮影したもの。

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9号機、ウィンストン・チャーチルWinston Churchillである。

来歴は複雑で***最終的に完成させたのはシェフィールドにあったYorkshire Engine Company1927年である。カナディアン・パシフィックのスタイルであるが、これは創立者ハウウィがイギリス流の機関車よりもこの大きなキャブが機関士の労働環境に良いだろうと考えた為と言われている。ハウウィはカナダの鉄道が好きで訪問もしている

ところで当時チャーチルは学校時代の劣等生から脱皮して大蔵大臣になってはいたが、機関車に名前をつけてもらう程のオオモンになるのはずっとのちである。つまり機関車は第二次大戦後に改名されたのであり、元の名はドクター・シンDoctor Synであった。これはこの地方を舞台とした当時のシリーズものの小説の主人公の名である。****

*:ハーキュリーズ はヘラクレス(ヘーラクレース)というギリシア風の言い方というか読み方の方が日本では一般的だろうか。

**:Davey Paxman & Co.1865年にDavey, Paxman & Davey, Engineersとしてイングランド南東部コルチェスターColchesterに創立された会社、何度もオーナー、名前が変更されている。現在はMANの傘下でディーゼルエンジンの製造をしている。

***:クラウスのボイラとRH&DRの最初の2輌の機関車用の部品を使いDavey Paxmanが着手し、RHDRが引き継いだとのこと

Yorkshire Engine Companyは創業1865年、蒸気機関車の製造は1956年まで、他の業務は65年までであった。英国へは入換機主体であるが海外には本線用も製造した。

****:1915年に発表された最初の物語のタイトルはDoctor Syn: A Tale of the Romney Marshである。18世紀の密貿易を基にしたものとのこと。これに因む行事が時に地元で行われるている。

なお、機関車に関するデータは主にRH&DRのウェブサイトに拠った

つづく

あまらぼ鍋屋町

2017年9月12日 (火)

今更ながらロムニー(2)チキチキバンバン

イギリスの子供向けファンタジーにチキチキバンバンというのがある。なんと007シリーズの原作者イアン・フレミングの作である。ミュージカル映画にもなっていて、こちらの方が有名だろう。英語の題はChitty Chitty Bang Bangなので假名で書くならチティチティだが、(当時の)日本人には言い難かったので誰かが変えたのであろう。*

このチティチティバンバンは車の名であり、主題歌にもなっている。その中で

Chitty Bang BangChitty Chitty Bang Bang のフレーズが、音痴の鍋屋町でも覚えているくらい楽しい強烈なリズムに乗せて何度も繰り返される。知らなかったのだが日本語のもある。

悪い癖で新シリーズを始めると別の話が割り込む?

そうではない。

実はこの空飛ぶ車にはモデルがあり、そのものズバリChitty Bang Bangという。飛びはしないが航空機エンジンを搭載したとんでもない代物であったらしい。所有者はルイス・ズボロウスキCount** Louis Zborowski、大金持ちのレーシングドライヴァであった。

そして彼は鉄道ファンでもあり、友人で同じくレーサーで且つ(ボロウスキほどではないものの)大金持ちのハウウィCaptain J.E.P. Howeyとともに15インチ軌間の鉄道建設を目指した。すでに有った15インチ軌間のレイヴングラス・アンド・エスクデイル鉄道の買収を試みたこともあったとのことである。この鉄道については弊ブログの

http://dampflok.cocolog-nifty.com/blog/2015/07/post-25bd.html

以降でご紹介した。

ズボロウスキは鉄道の開業(1927)どころか発注した機関車の到着を見ることもなく、1924年にレースで事故死したが、ハウウィはこのロムニーに土地を確保し鉄道を建設開業することに成功した。Captain Howey の名を冠したホテルが、ニューロムニーの駅の向かいにある。

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ニューロムニーに進入の列車から、画面右の建物がThe Captain Howey Hotel、その向こうに小さく見えている屋根がニューロムニー駅である。

注:

*:ティはチに言い換えるのが通常のやり方だが、それではチチチチになってしまう。

餘談に入込んでしまうが、チとティに関しては日本人の発音能力の変遷を窺える面白い例がある。英語からきたカタカナ語の発音と表記である。

team」これは多くの人がチームと発音表記する。ただ最近はティームと発音し表記する人も居る。しかし「teacher」となると、これをチーチャーと発音表記する人は居ない。ティーチャーである。カタカナ語としての受入年代が違うのである。つまり、チームはずっと昔にカタカナ語として定着したが、ティーチャーは比較的最近で日本人がチとティの区別ができるようになってからなのである。その結果、「teaching team」を假名表記すると、同じteaなのに「ティーチング・チーム」とケッタイなことになる。

**:カウントは大陸側でのタイトルで、英国ではearl伯爵に相当する。なお伯爵夫人は英国でもcountessと称するのでヤヤコシイ。

つづく

あまらぼ鍋屋町

2017年9月10日 (日)

今更ながらロムニー(1)ハイス駅へ

Romney Hythe and Dymchurch Railway ロムニー・ハイス・アンド・ディムチャーチ鉄道*

ブルーベル鉄道と並んで日本人鉄が海外に行き始めた頃から紹介されてきたので、(全称はともかく)名前くらいは多少知られている英国の保存鉄道であろう。

伊豆に「虹の里ロムニー鉄道」という準ホンモノもある。一部の機関車などは本家で製造したのを輸入したものである。これを建設した頃はまことにバブリーな時代であった。海外鉄道研究会の行事(あるいは有志の非公式行事だったかもしれない)として遠足、おっと視察に行ったこともある。

ブルーベル鉄道や御本家ロムニー鉄道(ロムニーだけだと駅名と紛らわしいので以後RH&DRと略記する)が古くから紹介されてきたのは、もちろんこれらの鉄道の素晴らしさもあるが、どちらも倫敦から比較的近いということが大きく寄与している。

RH&DRは分り易い地名を挙げればドーヴァーの近く、20km餘り南西にある。英国の撮影は車が無いとお手上げの所が多く、ここも車の方が圧倒的に便利ではあるが、列車でも行けないことはない。

鉄道で行くなら(英仏)海峡トンネルChannel Tunnel**方面への列車を利用し、アシュフォードAshfordあるいは、フォークストン・ウェストForkston Westで旧線経由の列車に乗り換えサンドリングSandling下車がよい。此処を経由してRH&DRの東の端ハイス駅へ行くバスがあるし、2km餘りなので歩いてもたいしたことはない。

ユーロスターの走る新線はこんなのだが

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旧線はのどかである。サンドリング駅。

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RH&DRの東の終点ハイス駅 外観と構内
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例によって時系列ではなく、場所の順に写真をお目にかける。
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この駅ではワイ(wye、三角線)ではなくターンテーブルを使用している。

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これはハイスまで乗って戻ってきた列車の牽引機が方向転換するところである。実はバスでサンドリングに戻るつもりだったが、どうしてもこの写真を撮りたくなり、バスを諦めサンドリングまで歩いたのである。

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機関車が先頭につき、ハイスからの折返し出発となる。

*:ダイムチャーチとカナ表記されるものも見る。現地ではディムチャーチと聞こえたのでこれを採る。どちらの発音もあるのかもしれない。それにしても英語は厄介である。

**:紛らわしいがユーロトンネルは運営会社の名でありトンネルの名称ではない。

続く

あまらぼ鍋屋町

2017年9月 2日 (土)

パニアタンクを撮りたくて(補遺)

最初の構想がキチンとせず、さらに書き進めるに連れて崩れてくるので、ついつい補遺で誤魔化すことになります。

アーリーの駅の情景を少し載せておく。この鉄道の駅はどれも素晴らしいが、アーリーはその中でも写真が撮りやすいと思う。

駅へ戻ると-当然のことながら-晴れる。

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信号扱所。プラットホームには往時の広告が復元、虞らくは過剰に復元されている。

英国も煙草天国であった。また近年の飲食店全面禁煙化でも「傳統あるパブまで禁煙にするのか!?」と抵抗が大きかったことは記憶に新しい。大陸側でもそうである。害を無視したというより、19世紀から20世紀前半には、むしろ肺に良いと一部の“医者”が言うことすらあったのは、当時の小説や映画で窺える。

間違い探し。現役当時との差は何処に有るだろう?
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体格の良い(euphemism)御嬢さんが荷物に肘をついて列車を待つことはあっただろうが、パンツ(英ではtrousersというので要注意)ではなくスカートだったろう。

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テンダーファーストの列車はあったのか?亜鉛メッキのパイプは高価で柵扉などには使わなかっただろう。まあ、そんなことは置いといて、木造客車は美しい。

最後に(3)への補遺。ご紹介したオールドベリー橋Oldbury Viaductである。(3)で書いたように、このポジションへは許可がないと入れない。
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セヴァーンヴァレー鉄道終り

あまらぼ鍋屋町

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