海外

2019年1月15日 (火)

バンコク 撮影地近くの華人廟

「タイ 謎解き町めぐり」

-華人廟から都市の出自を知る- 桑野淳一 著 彩流社 2017年初版

タイでも漢字の書かれた建物をよく見かける。華人が経済活動に広く深く関わっているので当然である。しかし私はその実態や歴史についてはまるで無知であるので、たまたま近くの本屋で見つけたこの本のタイトルに惹かれて読んでみた。

著者は文化人類学の先生で、「仏都バンコクを歩く」、「熊野灘もう一つの古道」、、、、といった著書を幾つも出されているが、私は読んだことは無く、これが初めて読んだ氏の著作であった。

本書は学術的な本ではなく基本的には紀行文である。同じような繰り返しが多いのが少し気になるが、読み進めるのは楽で、なるほどねえ!と面白い。

200ページ餘りの本で構成は次の通りである。

第1章  華人廟 タイの都市にはなぜ華人廟があるのか

第2章  海南郷党 大いなる開拓者

第3章  潮州郷党 タイ最大の華僑集団

第4章  福建郷党 雄飛する華人揺籃の地

第5章  客家郷党 由緒正しき漢民族の後裔

6章 広東(広肇)郷党 機械技術に強い誇りある集団

第7章  その他郷党 少数ながら光る存在意義

 

第1章に概説があるが、簡単になりすぎていて全体像を掴むにはもの足りなかった。

第2章以降は歴史順でもなく、また一般(大、多)から特殊(小、少)という順にもなっていない。前述したように全体が紀行文(の合成)である。従って全体像の理解にはちょっと手間取る。まあ誰かさんの頭の回轉の悪さが主因であるが。

5章になんと、馴染みというほどでもないが、何度も撮影に行った場所のごく近くが出ていた。

 

、、、、、BTSが延線(ママ)したトンブリ側のウッタカットの駅周辺を歩いていた。ここは駅を少しはずれれば、鬱蒼とした一時代前のジャングルらしき自然風景が見られるから面白い。、、、、、

 

鉄道の路線の延伸(延長)を「延線」と表現するのは私は初めて見たが、そればさておき「一時代前のジャングルらしき*自然風景」とはまたオーヴァーな表現である。当然ながらこのあたりも全て人間の手の入った植生である。

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そのウッタカットの駅周辺での撮影である。メークローン線のタラートプルー
Talat PhluとクロントンサイKhlong Ton Sai間である、うまく切り取れば、たしかに都内とは思えない鬱蒼とした緑の中を走る情景がモノにできる。ただ横へ引きは取れない。これは下記とは別の日の撮影である。BTSウッタカット駅は画面の左奥の見えない所にある。

この本では他のところでタイの鉄道の建設史に若干触れているところはあるが、バンコクの鉄道については記載がなくメークローン線にも触れていない。

 

この廟はパンクンティアン運河とサムチャイ運河か交差(ママ)**する要所にあるのだが

 

メークローン線(の東半分のウォンウィエンヤイ~マーハチャイ)が運河を渡るところに近い。何度が撮影に行ってこのブログにも写真をあげているが、いまだに列車と下の運河を通る舟のタイミングが合った写真をモノにできていない。

ということで、もう一度行って、ついでに紹介されている廟も見にいくことにした。

この時期のバンコク周辺は晴天が続くのが普通だが、たまたまこの時はタイ南部に上陸した台風1号*3の影響で曇天が数日続いていた。タイに台風が上陸するのは珍しい。この台風はさらに西進してアンダマン海に抜け、台風からサイクロンと名前を変えた。兎も角、それで通常なら逆光になる側から撮影した

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やはり舟とはタイミングが合わなかったし、「、、、、お婆さんは運河で洗濯を、、、」も洗剤投入時点で列車が通過してしまった。

華人廟を見にいった。左奥の赤い瓦屋根が紹介されている「天后聖母廟」である。

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上の写真の鉄橋から下流(南)へ250mほどにある。かつて運河の水運は福建郷党が握っていたそうだが、その名残らしい。

さらにもう一つ紹介されている近くの潮州人の廟「報恩堂」も見てきた。潮州人とは広東省最東部潮州市附近の出身者である。潮州郷党はタイ最大の華人集団とのことである。
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そこにある「三山國王」他にもあるかもしれないと書かれているが、カーンチャナブリでも見た。三山とは彼らの故郷の巾山、明山、独山で 

その神を廟に祀っているのである。

 

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たまたま、これだけかもしれないが、「天后聖母廟」も「報恩堂」も所在場所の記述が誤っていたので(贔屓目に言っても、大雑把すぎて)現地で戸惑った。*4

ガイドブックではないから厳密なことを求めても致し方ないのかもしれないし、本論の文化人類学上の考察とは関係しない部分ではあるが、少々残念なことではある。

<以下、補足的説明でクドイので興味ある方だけどうぞ>

*「らしき」という語の使い方の感覚の違いもあるだろう。「らしい」には次の意味があるが(「大辞泉」による。抜粋)

 1)根拠理由のある推量

 2)伝聞推量に基づく婉曲な断定

 3)ぴったりした状態、よく似た状態、いかにも、、、、のようである、まさに、、、、と見うけられる

著者は3)の「よく似た状態」の意味で使っているのであろうが、鍋屋町の感覚としては最後の「まさに、、、と見うけられる」の用法が真っ先に思い浮かぶのである。

**:こういうところはやはり交差という表記は良くない、交叉がよい。

運河がクロスするのではなく叉になって(ここでは合流して)いるのである。バンクンティアン運河が南南西への流れから大きく(90°以上)曲がって東進し始めるところに、北北東向きにサナムチャイ運河が合流する。

*3:日本以外ではこの台風はPabukと呼んでいる(ラオス提案の名前で淡水魚の名とか)20191号ならすっきり分かるのに、お互いに馴染みのない名140個を順につけていくのは馬鹿馬鹿しい面倒な習慣だと思うのだが。14か国が10ずつ枠を持っている、日本提案のTokageトカゲとかKujiraクジラなどは他の国では当然馴染みが無いだろう。もちろん訳すのではなくその綴りと音のまま用いるのである。さらに言えば、香港はいまや一国二制度すら有名無実の地域なのに中華人民共和国とは別に10の命名枠を持っているが、台風被害の非常に多い国であるにもかかわらず台湾は除け者である。中華人民共和国に阿ってこういうことをするから、「武力併合も辞さない」などと国家主席が公然と宣言するのであろう。他の国がこんなことを言うとそれだけで批難の嵐になるのに、例えばN国のA首相がこれに関して何か言ったというニュースは聞かない。

なお本文のように台風Pabukは西進してサイクロンになったが、名前はそのまま引き継がれるとのこと。こういう稀な場合だけ(十年に一度もないくらい)は番号よりも固有名の方が分かりやすいだろう。

 

*4:拙ブログを見てこの堂を見に行こうと考える方はいらっしゃらないだろうし、逆に文化人類学に興味を持つ方が拙ブログをご覧になるとは考えられないが、一応記録として残しておこう。

5P164の記述は次の通り(下線は引用者による)

、、、この廟(引用者注:天后聖母廟、上に写真を示した)は、バンクンティアン運河とサナムチャイ運河が交差(ママ)する要所にあるのだが、そこからラーマ2世ソイ28を進みジョムトン通りに出る角に潮州人の廟である報恩堂がある、バンコク、チャオブラヤ川の東西どこにでも最大郷党の潮州廟はあるのだから、、ここに、、、、

 

これを率直に理解すると、天后聖母廟はラーマ2世ソイ28(ソイについては下記#)に面しているか、あるいは廟からラーマ2世ソイ28にはすぐ出られると解されるが、実際には廟はエカチャイ通Ekkachai Rdに面し、ここからラーマ2世ソイ28は最短の所で直線距離150mほどと近いもののバンクンティアン運河の向こう側(南側)で、渡るには地図にない地元民のための歩道橋を使うしかない。少なくともGoogle Mapで表示されず、航空写真によってのみ存在が分かるような、従って現地に行かないと渡れるかどうかわからない橋である。

また報恩堂は、チョムトン(ジョムトン)(これについては下記##)通りに出る角ではなく、ラーマ2世ソイ28がチョムトンソイ19Chom Thong Soi19)とソイワチャナSoi Wachanaに分岐して終わりとなる角にある。
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画面右に少し見えている通りがラーマ2世ソイ28、左方向が(写真には写っていないが)ソイワチャナ、私が立っている位置がチョムトンソイ19である。
つまりチョムトン通り沿いを探しても見つからない。私が探し当てた(<ちょっとオーヴァーである)ときは偶偶昼休みで管理者が外出中で閉められていた。本文中にあげた内部の写真は当方も昼食後再訪して撮影したものである。

#:ソイとはタイで主要道路(タイ語でタノンという)から分かれる脇道である。行き止まりになっているものが多い。つまり、魚の骨のような構造である。上述のように他のソイに繫がるものは例外的存在である。ちなみにこの「ラーマ2世ソイ28」はラーマ2世通りの入り口からここまで2.5kmもある。

##:以前にも書いたことがあるが、タイ文字のラテン文字転写は一定しない所があり、カナ書きした場合も異なる表記になることがある。上のジョムトン、チョムトンもその一例である。

あまらぼ鍋屋町

2019年1月13日 (日)

虫瞻図?

もう半世紀近く昔のことだが、京福電鉄の帷子ノ辻(かたびらのつじ)で面白いものを見た。いまなら絶対にデジカメで記録するが、当時はそんなものを写真に撮るなどもったいなくてできなかった。北海道へ撮影に行っても気動車どころかD51でも撮るのを止めておくくらいであった。

なにかというと、この駅(もちろん今の橋上駅とはちがう)のホームにあった周辺の案内図である。ホームに降りた客がすぐ見られるように、駅名標と同様の置きかたがされていた。北側ホームの案内図は普通のものだった。問題は南側ホームのものである。

南側ホームの案内図は北に面していた。そして図の北は上に、南は下に、しかし東は左に、西は右にあった。なんと普通の地図とは裏向きに、まるでモグラが地面を見上げたように描いてあったのである。

普通に東を右にすると、現地でその地図を見る位置に立つ観光客などにとって東は左にあるので、その人が間違うのではないかと、、、おそらく地図を準備した人が、気をつかったのであろう。ならば北を下にすればよいだけなのだが「地図は北を上に描かねばならない」という強い固定観念に縛られていたのだろうか。こういう固定観念を持つ方はまま存在するようだ。

地図で同じようなものに再度お目に掛ったことが無い。写真を撮らなかったことがつくづく悔やまれる。

しかし鉄道の路線図ではこれと同様の、地面を見上げて書いたものを時々見かける。23年前に九州に行った時にJR九州の近郊(通勤?)列車内で見たものそうであった。気が附かないだけで他社でもあるかもしれない。

同様のものがバンコクBTS車内にもある。

まず、路線の模式図を見ていただこう。駅で見られるものであるが、スクムウィット線のN9から北の2019年及び20年に開業予定の16駅も既に記入されている。
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車内にある路線図は両側のドア上部にある。細長いところに描くために大きくデフォルメされている。

駅の位置関係は車輛の方向と合致している。しかしどちらの側にある路線図もスクムウィット線が上に、シーロム線が下になるように描かれている。
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クドクなるが丁寧な解説をしよう。山側*(数行下参照)にある路線図はこれである。
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スクムウィット線が上にあり、そしてスクムウィット線北側最北端のMo Chitが左端、同東(東南)端のKhehaが右端で、車輛の方向と合致している。その下に描かれているシーロム線は西側端(現在西は一駅しかないが)のNational Stadiumが左端、南端のBang Waが右端にある。これも車輛の方向と合致する。

大きくデフォルメされてはいるが位相的には位置関係は正しい。

*それぞれの線の列車は単純に線内で端から端まで折り返し運転をしているだけである。頻繁に共通運用されているのかどうかは知らないが車輛は両方の線で使用できる。モーチットの車輌基地からでた列車がシーロム線に入る場合は、サイアム駅手前(西側)の渡り線を使って入っていく。車内ではくどくバンワー行きであると案内放送がある。入庫時はこの逆であるが、これは乗ったことがない。

*シーロム線は全体で線路は大きく曲がり込んでいるのでバンワーでは逆に北に向いている。従ってシーロム線で山側、海側と言い方は誤解を招く可能性がある。

しかし車内の海側*(上記参照)にある路線図は
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車輛の方向と合わせて、スクムウィット線北側最北端のMo Chitが右端、同東(東南)端のKhehaが左端で、その下に描かれているシーロム線は西側端(現在西は一駅しかないが)のNational Stadiumが右端、南端のBang Waが左端にある。

しかし、スクムウィット線が図の上に、シーロム線が図の下になっている。つまり位相的に位置関係が正しくない。地面を地中から見上げたかたちなのである。

BTSJR九州は何にとらわれて、位相的に逆の路線案内図を作るのだろう?こういうのを見ると、却って分かりにくいではないかと思うが。あるいは「地図を見るときは人間は俯瞰(鳥瞰)で見て理解している」と考える私の方が固定観念に囚われているのだろうか?

ところで、このように見上げて描写するのは何というのだろうか?

俯瞰あるいは鳥瞰図(bird’s eye view)に対して虫瞰図(insect’s eye view)という語はある。しかしこれは大きく全体を見ることに対して、虫の目で見たような微細な図を言う。見上げることではない。

漢和辞典を見ると「瞻(セン)」仰ぎ見るという漢字はある。

ならば「虫瞻図」(チュウセンズ)はどうか?地中の虫が地面を見上げた場合に書く地図、鍋屋町が今の今、作った語である。しかしこの字は真上を見るという動作ではなく、山を仰ぎ見るような時に使うようだ。

結局適切な言葉は見つからない。

英語で航空機の着陸はlandingと言うが、離陸はtake offと言う。もし鳥が英語を喋ったら離陸をairingと言うだろうと誰かが書いていた。

テッポウウオ(鉄砲魚)という魚が東南アジアなどに居る。当然ながら水中に棲息し水面上などの昆虫などを、その名の通り口から水を噴射して捕獲して食べる。鳥が英語を喋ったらと同様の推測をするならば、数億年後にもしテッポウウオが言語を獲得し文字を使うまでに進化したら、彼らの間ではそういう下から見上げる地図(水図面)が普通のものなので、きっと適切な言い回しや漢字?を作ってくれるだろう。

お前の探し方が足りない、こういう言い回しや漢字がある、というご教示を戴き、この部分が書き換えられることを期待しております。

つづく

あまらぼ鍋屋町

2019年1月11日 (金)

タイ バンコク都および周辺 半年ぶりの観察

バーンスー駅 定点観測

バンコクに来るたびに何故か見たくなるSRT(国鉄)バーンスー駅、新駅の建設状況である。バーンスー現駅の廃用となった旧ホーム南端から北を見ている。
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巨大な新駅舎の南側に半年前と比べると多少造作が増えている。現駅を通過していくのは中華人民共和国中車製の寝台車編成、機関車はそれに合わせて塗色変更された日立製、列車はクルンテープ駅(俗称フアランポーン駅)への廻送である。

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駅の北を望遠で見る。右端が新駅舎であるが、その左の白色(霞んで少し赤く見えるが)のコンクリート構造物は北線、南線などの取附け部と思われる。遠くに見えるこの列車もクルンテープ駅への廻送である。機関車はアルストーム。

BTS(高架鉄道)スクムウィット線の延伸

東側*終点はサムローンSamrongであったが、そこから一気に8駅、ケーハKhehaまで延長された。126日に開業したそうである。
スクムウィット(スクムビット)通りというとバンコク都内で一日中渋滞の激しい道路、スクムウィットには日本人などの駐在員や家族が多数住んでいて、スーパーには各国の食材が多数売られ、、、、というイメージである。

しかし、実はスクムウィット通りはバンコクからカンボジア国境にまで至る全長400kmの道路である。通りの名はPhra Bisal Sukhumvitタイの第5代の道路局長に因む。**

開業したとはいえ、試験運転?で新規区間は4月まで無料開放されている。日本ではこんな例は知らない*3が東南アジアではよくある。

全面的に自動改札であるので、無料区間のみの乗車でも切符は必要である。プリペイドカードを持つ人が増えているので、窓口で切符を貰う人の列は以前と比べ短い。


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駅の表金表であるが、スクムウィット線(黄緑)の下の方には0が並んでいる。

サムローン駅(2017年開業)と一つ手前の(バンコク寄り)ベアリングBearing駅(2011年開業)の間も何故か0バーツと表示されている。ベアリングまではバンコク都であるが、サムローン以南は南隣のサムットプラカーン県にある。それが関係していたのであろうか。実際にベアリングまでが無料かどうかは試さなかった。

全線通しで運転するのではなく、サムローンーケーハは別編成で運転し島式ホームのサムローンで反対側へ乗り換える方式をとっていた。新規区間全駅にホームドアは設置されているが、まだ運用されていなかった。なお既開業区間でもホームドア未設置の駅はいくつかある。運転間隔は10分でかなり長いが、乗ったのは昼間であり乗車率は高くない。正式開業?有料化後?はどういう運転方式にするのだろうか。サムローンのケーハ側には上下線の間に留置線があり、一部の列車は此処までの運転として折り返すことができると思うのだが。(他の幾つかの駅にも設備はある)

とりあえずの終点のケーハKheha
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の沼では老女が水浴びをしていた。なんちゅうド田舎や、と思ったが、すぐに朝夕はバンコクへ通う通勤客で満員になるだろう。さらに南へ工事は進んでいる。

新規開業区間にはパクナームPak Nam駅がある。どの駅も基本設計は同じで変わりばえがしない。
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パクナームとは河口のこと、チャオプラヤ川の河口の意であるが、タイランド湾はまだほんの少し数キロ南である。ここはタイ最初の鉄道であるパクナーム鉄道(民営、フアラムポーン(これは俗称ではなく正式名)~パクナーム)の終点であった。パクナーム鉄道の駅が何処にあったのかは残念ながら私にはわからない。
1893年開通で電化(全線電化完成は1926年)もされたが、のち1943年に国営化され自動車との競争に負けて196011日廃止されてしまった。またこの当時の交通政策は道路優先、鉄道は目の敵であった。

今回60年の歳月を経て、またバンコクへの電気鉄道ができたのである。

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パクナームの駅からチャオプラヤ川岸までは200mほどであろうか、ここと隣(都心側)のRoyal Thai Naval Academy駅が特に川に近い。左後ろの搭は近年建てられたPaknam Observation Towerで、Gulf of Thailand Knowledge Parkという公園の中にあり、博物館にもなっている(らしい、、、、、こんなに近いのに見に行っていない)

(以下補足と蛇足)

*:BTSでは駅の附番はスクムウィット線とシーロム線が連絡するサイアムをCとし、スクムヴィット線はN+数字、E+数字という表記であるが、この辺りではバンコク中心から南東方向に伸びている。なおシーロム線の駅附番はW+数字、S+数字である。

**:タイ人初のMIT卒業生、3040年代の道路政策に携わった。のち灌漑省の総裁にもなった、自由タイ運動(第二次大戦中の地下反日組織)に参加し、第二次大戦の末期にはアメリカに送られた。タイは戦中日本の同盟国であったにもかかわらずアメリカとの関係の早期修復、国際社会への早期復帰ができたが、それに尽力した。

*3:日本では逆に廃止になる時の最終日などに無料になることはあったようだが、そういうのを見に行くのは趣味でないので経験はない。

続く

あまらぼ鍋屋町

2018年12月31日 (月)

我々のは保存鉄道ではない その3

リントン・アンド・バーンスタプル鉄道 Lynton and Barnstaple Railway2回目はガーラの時に訪問した。あわよくば1日目の夕方から見られるかと思ったが、「純粋に水動力のケーブルカー」で書いた事情で2日目のみの訪問となった。また、さらに次の日にフォトチャータがあったのだが、超人気ですぐに売り切れ、キャンセル待ちすら叶わなかった。

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この日の稼働機は4台であった。

まずはこの日の目玉、Lydである。

LydはフェスティニオグFfestiniog鉄道の機関車で同鉄道のボストン・ロッジ工場で長年にわたりゆっくり製造され2010年に火入れを行っている。今回はガーラのためにやってきたのである(visiting enigineという)

リントン・アンド・バーンスタプル鉄道のLewをモデルとしているが、これは1925年にマニング・ワードルManning WardleSouthern鉄道(当時はこの一路線であった)に納入した2-6-2Tタンク機である(製番2042)。Lewは軌道撤去工事に使用された後はブラジルへ送られたのではないかとされているが、英国の機関車としては珍しく(!?)、経緯も現況も不明である。

Lydは前回書いたLynと同様で、外見はLewのクラシカルなスタイルであるが、構造面では近代的な蒸機である。最初は油焚きで製造されたが、石炭焚きに改装された。


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このガーラ2日目には、LynLydの重連および単機で客車列車の牽引が繰り返された。

ガーラ1日目とこの翌日のフォトチャータの日は抜けるような青空が広がる天気であった―私は移動日!-が、2日は曇りベースの天気であった。
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客車列車と別に貨物列車も仕立てられ、前回ご紹介したAxeFeithというカマがトップ・アンド・テイルで担当した。Feithが後尾であった。

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Feithはジョン・アップヒルJohn Uphillという人が製作した0-4-2Tの機関車で、通常はサマセット州のガーテル・ライトレイルウェイGartell Light Railwayにいる。まるで76/76のライヴスティーム*みたいである。

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客車列車はウッディ・ベイからキリングトン・レインを往復したが、貨物列車はその間を縫う形でウッディ・ベイからほんの少しの区間を往復するだけであった。撮影者としては少々物足りなかった。

の鉄道訪問について

現在鉄道の主たる駅であるウッディ・ベイに良いホテルがあるが、餘程早く予約しないととれない人気である。一回目の訪問では幸運なことに確保できた。ただ夕食が供されないし、附近にはレストランも売店も何もないので、車がないとなんともならない。バス利用の私は仕方なく冷凍食品を買い込んで出かけた。(電子レンジがあることは電話して確認した)

リントンには多くのB&Bがあるので、(私のようなペーパードライヴァは)そこから路線バスで行くのがよいだろう。本数が少ないので朝食を採る余裕がないかもしれないが。

二回目の訪問の時は英国の友人にリントンから便乗させてもらう手筈であった。しかしガーラでは来訪者が極めて多いため、通常の駐車場では捌ききれないので、これは身体障碍者専用とされ、一般の客はリントンの街から、あるいはブラックムーアBlackmoorに設けた駐車場からリントン・アンド・バースタプル鉄道が提供するシャトルバスを利用することとなった。

(蛇足&イチャモン)
*:Live Steam 本当に蒸気をつかった模型と言うくらいの意味、日本でもライヴスティームと言うが、この言葉は多義であり分かりにくいし、一般に浸透しないうちに、ミニSLという嫌な言葉が蔓延ってしまった。

なお、この鉄道のウッディ・ベイ駅にもライヴスティームがあり運転されている。まともな写真が撮れなかったので(乗客や運転者が大きく写っている)のでここに載せるのは控えます。

この鉄道はこれで一旦終わります。

あまらぼ鍋屋町

2018年12月29日 (土)

我々のは保存鉄道ではない その2

リントン・アンド・バーンスタプル鉄道 Lynton and Barnstaple Railwayは今まで2回訪問した。まずは最初の訪問を書きます。

使用されていた機関車はLynのレプリカおよびAxeであった。
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オリジナルのLynについて

名前はLyn川に由来する。*

この会社の4番目の機関車、といっても1号から3号にすぐ続いて発注されたのであるが、車輪配置2-4-2Tのタンク機である。なんとボールドウィン(米国フィラデルフィア)製である。というのは当時英国では一日8時間労働を目指しての労働争議が続いていて、各メーカーは厖大な受注残を抱えていたのである。部品の状態で輸入され、1898年にこの鉄道のPilton工場で組み立てられ試運転となった。こういうのは1898年製としてよいのだろうか?鉄道の閉鎖に伴い1935年に解体された。

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レプリカのほうであるが、2009年に製造計画が発表された。木製のキャブ、ボイラというように部分部分で製造されていき、Alan Keef Ltd.Ross-on-Wye、英国)が最終の組立てを担当した。2017年に試運転、9月に営業運転に使用開始で、私は英国の友人から話を聞いて11月に見に行ったのであるが、今回の話はその時のものである。(ならばもっと早く載せろ、とのお叱りを受けそうだが)

外見は(レプリカだから当然であるが)オリジナルと同じであるが、過熱蒸気使用、熔接構造採用、ガス化燃焼、4ノズルの レンポアシステムLempor systemとコルディナKordinaの採用*2、全軸・瓣装置を含む全可動部へのローラーベアリング採用とできる限りの近代化がなされている。

もう一つの機関車はAxeである。*
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-6-0T サイド・アンド・ウェルタンク機 

カーストュアートKerr, Stuart & Co Ltd2451番、1915年製でフランスが西部戦線用に発注した60cm軌間のジョッフルJoffre クラス の一つである。

1956年頃英国のファンがこれを含む5輌を再発見し、74年に英国に戾った。83年にLynton & Barnstaple鉄道が購入、ヴォランティアメンバーによる修復を経てGartell Light Railwayにより完成した。

前回少し書いたが、この訪問時は、終点キリングトン・レインのパッシングループPassing loop(日本語で何というのか?前後共に本線に繫がっている側線)の遠い側即ちウッディ・ベイとは反対側の転轍機をLynが通過できなくなったのである。
このため、最初の列車をAxeLynのトップ・アンド・テイル*3で運転して、Axeをキリングトン・レインに残し、その後の運転ではLynに牽引されてやってきた編成はLynと客車に分離したのちにLynはウッディ・ベイ側の転轍機を使って退避し、Axeが客車を動かしたのちにLynが客車のウッディ・ベイ側に連結されるという運用をしたのである。

キリングトン・レインから登ってくる列車

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当然ながら最終列車はAxeLynの重連でウッディ・ベイに戾った。

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この日1112日はRemembrance Sundayであった。リメンブランスデイは19181111日の第一次世界大戦終結(独逸と連合国の休戦協定締結*4)の記念日で、全国で(あるいは全欧米でと言った方が良いか)追悼式が行われる。上のAxeに掲げられている赤い花輪はポピー、リメンブランスデイの習慣である。

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(補足あるいは蛇足)

*:この鉄道のカマの名前は全て3文字で、川の名前を採用している。

**:要はシリンダーからの排気で如何に効率よく通風排煙させるかという工夫で、南アの有名なレッドデヴィル(26型<<25型からの改造)を設計したウォーデイルWardaleの本に説明があるのですが、ブログで解説するのはもっと勉強してからとさせていただきます。しかし文字の非常に細かい本で、今後読めるか心配になる。

*3:Top and tail 頭と尻尾、つまり先頭と最後尾に機関車を附けること。日本の鉄はこれをプッシュプルと言うが、英語のpush-pullは編成中の機関車の位置を附け替えずにどちらの方向にも運転することをいう。つまり機関車が最後尾になった時は、全体が推進運転になる。これは欧米の運転方式では多く見られる。英語は英語、日本語は日本語であるが、要注意ではある。


*4;フランスのコンピエーニュの森に置かれた客車(ワゴン・リの食堂車)で調印式が行われた。のち客車は1940年の休戦協定締結時にも使用されたが、独逸に持ち去られ破壊された(失火説もあり)

現在同地にはレプリカがあるとのことであるが、鍋屋町は未見である。

次は2回目の訪問時の写真を見ていただきます。続く

あまらぼ鍋屋町

2018年12月27日 (木)

我々のは保存鉄道ではない

リントン・アンド・バーンスタプル鉄道 Lynton and Barnstaple Railway

前回の記事で書いたようにリントンおよびリンマスに行くには、バーンスタプルまで鉄道で行き、そこからバスに乗る。バーンスタプルはブリストル海峡に注ぎ込むトー川River Tawに面した古い港町、ロンドンから行く場合はエクセターExeterで支線に乗り換えその終点である。

このバスの区間、昔は1 フート 11 1⁄2 インチ(597 mm)ゲージ、全長31km餘りのナロー鉄道で結ばれていた。今も道路が狭く曲りくねっているように、鉄道敷設に適した地形ではなく、標準軌では費用的に無理でナローゲージが採用された。

法案の議会通過*は1895年、開業は1898年である。短い路線の割に時間が掛かっていることからも難工事が覗える。

鉄道は1923年にサザン鉄道Southern Railwayの一部となった。しかし何処も同じ(というか英国は世界の先頭を切った)モータリゼーションで、リントン・アンド・バーンスタプル鉄道は早くも1935年に廃止となり、一部の遺構が残るのみとなった。

英国のでも、「廃止と前後して保存団体の設立、全面あるいは部分的な保存活動と続く」のはこの廃止よりまだまだ先のことである。世界最初の保存鉄道はウェイルズのタラシン鉄道*2であるが、保存協会発足1950年、開業51年である。

リントン・アンド・バーンスタプル鉄道協会Lynton & Barnstaple Railway Associationができたのは廃止から半世紀近く経った1979年、更にその四半世紀後の2004年にやっと最初の客車列車が走った。70年近くを経ての再開なのである。

蒸機列車の写真を期待されている方には退屈な話が続いて恐縮であるが、バーンスタプル側からリントン側にかけて、現状をご紹介しよう。

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町の中心側からトー川を南に見る。BR(元はSouthern Railway)のバーンスタプル駅は画面に見える道路橋の先(右側)にある。こちら側にあった駅はバーンスタプル・タウン駅Barnstaple Townと称した。鉄道橋は撤去された。

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Southern RailwayLynton & Barnstaple Ryの駅のあった所にはこのような表示があった。


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この路線一番の名所であるChelfham Viaductチェラム橋(2000年に再建)、列車が走るようになるのはまだまだ先であるが。高さ21mある8連の煉瓦アーチ橋でイングランドのナローゲージでは最大とのことである。


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橋の先にチェラム駅が再建されていた。このように各地で土地が買い戻され、路床が少しづつできている。蒸機列車を運転する外向きの派手な所だけでなく、こんなところでもヴォランティアが少しづつ地味な作業を進めている。

現在線路が敷かれて列車が運転されているのは、ウッディ・ベイWoody Bayからキリントン・レインKillington Lane*3(ウッディ・ベイからはバーンスタプル側にある)までの1.4kmほどである。なお現在の軌間は600mm1 フート 11 5⁄8 インチ)である、誤差範囲のような気もするが、、、、、

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ウッディ・ベイにて

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キリントン・レインにて

周囲に何もなく、カマの機回しがされて列車が折り返していくだけである。もっともこの撮影時は転轍器のトラブルで、通常とは異なり2台のカマを使って厳密な意味での機回しをせずに運転された。

さらにリントン側に進むとこんな遺構もある。
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リントンの駅跡はこれである。
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街の中心部からは離れたかなり高いところにあるが、これ以上降りるルートが無かったということだろう。もちろん前回ご紹介した全水力式ケーブルカーからも離れている。

保存鉄道、英語では(特に英国では)heritage railway(railroad)と言うことが多いが、preserved railway(railroad) とも言う。しかしここでは関係者は誇りを持ってこう言う。”Ours is not a preserved railway. We are reconstructing it 我々のは「保存」鉄道ではない。再建しているのだ。

現在進行形である。非常にゆっくりである。現在携わっている人で完成形を見られる人は殆ど居ないかもしれない。

次回は蒸機走行シーンを見ていただきます。続く。

(蛇足)

:当時は鉄道ごとに法の制定が必要であった。

*2:日本では従来「タリスリン」と紹介されてきていて、今も多くの情報源がそうであるが、私見ではウェイルズ語の発音により近い「タラシン」の表記が良い。これについてはこのブログで以前一度書いたことがある。

*3:現地で訊ねたら、kill(殺す)の意とは関係のない地名とのことであった。なぜこんなショーモナイことが気になったかというと、キューバのハバナの100km足らず東にマタンサスMatanzasという市があって、これは西語の語義通り「虐殺・大量殺人」の史実に由来するからである。キューバの製糖線の蒸機を見に行った際についでに見たハーシーHersheyのインターアーバンが此処を走っていた。

(更に蛇足横道へ)チョコレートのハーシーである。西語ではHは発音しないが、外国の地名人名などでは発音する。佛語のように問答無用、一切発音しない(従ってHの音を発音できないフランス語人が結構居る)というのとは違う。なお現地ではヘルシーと発音している。

あまらぼ鍋屋町

  

2018年12月11日 (火)

純粋に水動力のケーブルカー

リントン・アンド・リンマス・クリフ鉄道Lynton & Lynmouth Cliff Railway

リントンはロンドンから西へ直線距離で約250km、ブリストル海峡Bristol Channelに面する町である。天気の良い時に北を見るとその海峡越しに遠くウェイルズが見える。リントンは海岸の断崖の上にある町であるが、その直ぐ東にはリンマスの町が海岸にある。

2つの町(この鉄道ができた頃は村)と他の地域を結ぶ道路は今日でも狭く曲がりくねった山道である。* 19世紀になって近代化が進んでくると石炭や石灰、食料など必需品は海路による輸送に頼ることになり、2つの町の間は馬によるしかなかった。また19世紀には英国の観光産業が発達してきたが、観光客はブリストル(ブリストル海峡の奥にあたる)、スワンズィー(ウェイルズ、ブリストル海峡の対岸)などの都市から外輪船でやってくるようになったが、ここでは歩くか馬しか無かった。

それでこの鉄道、日本流に云うとケーブルカーが海岸のリンマスとその上にあるリントンを結ぶために建設されたのである。当初の提案は蒸気動力であったが、水力利用で建設された。
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左は上のリントン駅、右は下のリンマス駅から上って行く列車?車輛(籠)

英国唯一の全水力式鉄道である。つまり動力源としてエンジン、電動機などを使っていない。設計はジョージ・クロヴドン・マークスという人で、建設開始は1887年、全て人力によったとのこと。まあ、機械が投入できるような地形ではない。1890年に開業した。

高低差は500フィートで、この高低差を僅か862フィートの路線長で上下する。58%の勾配は世界一とのことである。

ケーブルはそれぞれの車輛(籠)の上だけではなく下にもつながっていて、5 ft 6 in (1.676 m)の滑車が上下にある。

水は1マイル以上離れたWest Lyn川から配管で供給されている。車輛の床下に700インペリアルガロン(3立米強)のタンクがあり、車輛が上にある時に給水される。
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左の写真で左右の壁から僅かに突き出ている曲がった太い配管が給水管であるが、給水シーンはうまく撮影できなかった。

右の写真はブレーキ装置である。

道は3 ft 9 in (1,143 mm)軌間の複線であるが、そのままで行き違いができるほどの間隔はなく、中間点で相互に左右に拡がっている。
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左は下の駅から上昇していくゴンドラ、上昇開始しばらくして放水していた。水は循環再利用などせず使い捨て、つまり動力源は純粋に水の位置エネルギーのみである。

上のリントン駅のすぐ下に道路からアクセス可能な停留所があり、大きな貨物はここで積み降ろしが可能である。また通常載せている40人乗りの客室はその場合は取り外すとのことである。大規模な補修工事にも役立っている。

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現在は観光用なので冬季(
12月および1月)は運転されない。現役時代の厳冬期の運転はどうしていたのだろうか?氷点下の気温が続くと水の補給管や排水管が凍結して運転できなくなるが**、このあたりは南からの海流によりイングランドでも温暖な地域であり、東風が強烈な極端に寒い日は少ないと思われるが。

(蛇足)

*:実はこの旅行では移動に関して徹底的にツキが無かった。一つの鉄道から他へ移る移動で、航空機、列車その他に遅れやキャンセルなどが無かったものが皆無であった。

その極めつけが、上に述べた* 曲がりくねった狭い道であった。BRで行けるバーンスタプルの町からリントンへおよそ1時間に一本運転されているバスに乗ったのだが、なんと交通事故で道路閉鎖。運転を取りやめ起点に戾るではなく、一時間以上も遠回りして辿り着いた。日本だったら路線バスは認可?申請?外の経路通行は不可などと言うかもしれないが、その点は融通が利くようで助かった。

兎も角、このためアワヨクバと思ったリントン・アンド・バーンスタプル鉄道のガーラ1日目の最終列車を撮影に行けなくなり、リントンでの代替行動としてここを訪問したのである。(リントン・アンド・バーンスタプル鉄道のガーラ2日目は予定通り撮影した)

B&Bで場所と運転時間を聞くと、最終は18時とのこと。もう1時間半しか残っていないが、なんとか往復乗車して沿線で2,3カットは撮れるだろうと現地に行ってみると、なんと最終は17時であった。いまや生活に直接関係ない観光施設は現地の人にとって、その人がB&B経営と言う観光産業に携わっている人でも、重要性がほとんど無いのであった。

ということで撮影はわずか30分ほど。撮り逃がしたシーンが幾つかあるが、再度この町に来る機会があるとしても蒸機撮影を犠牲にしてまで再履修したいというほどでもない。

**:実際には凍結膨張により配管が破壊されないよう、凍結が予想される場合は事前に配管から水を抜くことが必要となる。

あまらぼ鍋屋町

2018年11月30日 (金)

蒸気動車試運転

ホムトフ機関区(前記事で書いた通り博物館側のことである)での撮影中に汽笛が聞こえた。特別列車を見落としたか?それとも鉄道側でなにか蒸機の作業でもあるのか?見に行くべきか迷ったが、館内の静態保存の撮影を続けた。ここに再度来る余裕は無いので、中途半端に終わらせたくない。そもそも事前許可なく機関区側に立ち入りできるかどうか、、、多分難しい。

思いのほか長くかかった撮影を終えてから、PCの画面をノンビリ見ている手持無沙汰の受附氏に汽笛のことを訊ねたが、壁の向こう側!のことは一向に関心が無く何も知らなかった。しかし外に出ると汽笛の主が居た。


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ČSDでは M 124.001であるが、元はkkStB 1.001である。

博物館のマークが正面にデカデカと掲げられている。以前の写真ではこれはないので近年の取附けだろう。

リングホッファRinghoffer1903年に製造した。*

Ringhofferはプラハのスミーホフの機械メーカで最初は醸造機器や製糖機械から始め、のちに客貨車やトラムの製造を行った。このためであろうこのM 124.001の製番は65168と非常に大きい。

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こんな小さい車体でも2等車室と3等車室に分れている。残念ながら内部を見ることはできなかった。


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車内に設置された縦型ボイラはコマレク
Maschinenfabrik Komarek製で、コマレク蒸気動車とも呼ばれる。コマレクはウィーンのファヴォリーテンFavoriten10区)にあったボイラや蒸気機関のメーカである。操業開始年は諸説あるが1800年代末期で1909年頃に廃業したらしい。

当初はパワー不足で、1906年にボイラを取替えている。


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ご覧のようにシングルドライヴァで、瓣装置はジョイ式である。蒸気機関は複式で、こちら側が低圧シリンダである。

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日陰で分りにくいが、こちら側(進行方向右側)が高圧シリンダである。

当初はカメニツキー・シェノフ-チェスカー・リーパ・ストジェルニツェKamenický Šenov–Česká Lípa střelnice の路線に投入された。しかし、1979年に廃止されたこの路線は勾配区間であった。この蒸気動車はボイラ換装後もまだ出力不足であったのか、あるいはシングルドライヴァであることが影響したのか、すぐに他の線で使用された。

係員たちはのんびりと仕事を進めているような、休憩しているような、で、一向に次の運転が始まらない。次の日の撮影は朝一番の列車で出かけなくてはならないので(この成果が先に書いたムラデェヨフ産業鉄道のエンゲルト機撮影である)、走行シーンの撮影はまたの機会にすることとしてプラハに戻った。

*:1904年としている資料もある。19042月に(初回かどうかは不明だが)試運転をしたとの記載もあるので、どの時点で工場を離れたか、どの時点で納入受取されたか、などの解釈の相違ではないかと思われる。

チェコはとりあえず終えて(実際の行程通りに)英国に戻りましょう

あまらぼ鍋屋町

2018年11月28日 (水)

ホムトフ機関区

ホムトフChomutovはプラハの北西60kmほどにある町である。ドイツ国境まで10kmほどで、プラハよりはケムニッツ(情けないことに鍋屋町にはいまだにカール・マルクス・シュタットという強烈な名前の方がピンとくる)の方が直線距離では近いくらいである。

ここにホムトフ機関区Železniční depozitář Chomutovがあり、約100輌の車輛(うち蒸気機関車が20輌餘り)保管されている。保管には扇形庫を利用していて、見学可能な蒸機は全て轉車台とは反対側に頭を揃えている。

この保管区域は前々回書いた国立技術博物館が管理していて、開館は木曜から日曜である。見学者は(通常は)庫外のチェコ鉄道が運営管理する区域には出られない。さらに建物内(保管区域)に柵があり、その先の轉車台側は補修のために区分してあり、見学者はそこから先は行けない。

見えるところに居る蒸機だけは一応撮影してきたが、柵の向こうにつまり轉車台側にあるものもあり、それらはキチンと撮れてはいない。現場の説明板はチェコ語、独逸語、英語となっていたので、それを手掛かりにいろいろと調べてみた。ただ静態保存機を延々と紹介しても退屈なブログがますます退屈になるので、ここではごく一部だけに留めよう。

入口に假置きしてあるカマ
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Poldi no.7との愛称がある。工場名(元は人名か?)からと推測されるが、調べきれなかった。 800mmゲージ 0-4-0T

1937年 ČKD Českomoravská-Kolben-Daněk)製 製番1724

クラドノKladnoのプラハ製鉄所用に製造された。800B50型と呼ばれた11輌の一つ。連結器の更に前に張り出しているビームからみて推進運転専用で使われたのかもしれないが詳細は分らない。

入っていくと最初の展示はこの蒸気ロータリー
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チェコではSM-01と呼ばれた。DRDeutsche Reichsbahn)では727541のち775002とされた。1943年製 ヘンシェルの供給であるが、下請けに多く任せていたとのこと。その具体的な輌数や部分は不明である。

DR当時はブレスラウBreslau(現在はポーランドのヴロツワフWrocław)配属であったが、ブレスラウがズデーテン地方も管轄していたので第二次大戦の終了後チェコのものとなった。リベレツ地方Liberecký kraj*で使用された。

5mまでの積雪に対応と説明板にあった。日本より雪質が軽いだろうが、車高より高いのにホンマに大丈夫?という感はする。 

422.025 (kkStB die kaiserlich-königlichen Staatsbahnen帝立王立国有鉄道(オーストリア)では178.49
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178の最初の4輌はクラウス・リンツで1900年に製造
当機は1907První Česko-moravská továrna na stroje v Praze (チェコ-モラヴィア第一機械製作所在プラハ、ČKDの前身)の製造

ローカル線用のカマであるがサイドタンクにArcivévoda Karlとちょっとモッタイナイ立派な愛称のプレートがある。Arcivévodaはオーストリアの大公のことでカレル大公、独語でErzherzog Karl、英語でArchduke Charles(うーむ<<偏見!)の貴顕は何人か居る。

最も有名なのはナポレオン時代のオーストリア皇族で軍人カール・フォン・エスターライヒであるが、製造年代から考えると最後のオーストリア皇帝カールI世(1907年当時に皇帝は大伯父のフランツ・ヨーゼフI世でカール大公は皇位継承2位であった)であろう**

カマの方であるが1960年引退だが77年に動態復帰し2002年まで動いたとのこと

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ウースティー・テプリツェÚstí Teplice鉄道 IIIa
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1870年ハルトマンHartmann製 

この私鉄は石炭輸送を目的として発足したが、旅客営業も行った。IIIa9輌製造され、旅客営業に使用されたが、1924年以降のČSDでは入換機としての使用であった。

このカマはDonnersbergと名附けられたが、これはテプリツェの南東にある山ミレショフカMilešovkaの独逸名である。彫刻まで施された優美なスプラッシャーが印象的であるが、これをランボードとして使うのは面倒だっただろうと思う。

残念ながら展示されている多くの機関車はロッドの一部を外されたままで、これもその一つである。人手が無くて、搬入時其の儘なのだろうか、あるいは他の場所での運転(この機関車はもう無理だが)や展示に備えて敢えてとり附けないのか。

U47.001
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760mmゲージ 1907年ヘンシェル製0-4-4-0T マレー・タンク機である。***

元はセルビア国鉄用でDonja ĆuprijaRavna Reka線(ドニャ・チュプリヤ-ラヴナ・レカ)に配置された。チェコのインジフーフ・フラデツ鉄道には第一次大戦後の1921年に配置された、1961年まで使用され、65年に国立技術博物館入りしたが、92年から14年まで再度このナロー路線で使用された。同鉄道は24ČSD に編入、98年民営化Jindřichohradecké místní dráhy(JHMD インジフーフ・フラデツ地方鉄道)となっている。

(蛇足)

*:クライKrajには適切に対応する英訳、独訳が無いようで日本語訳も一定しない。チェコの地域区分・行政単位の最高位である。リベレツ・クライの主要都市はチェスカー・リーパČeská Lípa、リベレツLiberecなど。

**:カールI世の皇后ツィタは長生きした。王権神授説を信じ、退位を認めない頑固な婆さん(失礼)が居るというのを昔どこかで読んだ。死後にやっとオーストリアに戻ることができ、ウィーンのシュテファン大聖堂で葬儀が営まれた(1989)が、反対が非常に強かった。20世紀もそろそろ先が見えてきたころにハップスブルク、ブルボン、、、、でニュースに驚いた記憶がある。

***:現場の英語解説は独逸語からの重訳と推察される。というのはその英文ではこれがテンダー機となっているからである。独逸語のTenderlokomotiveをウッカリそのまま轉用したものであろう。独逸語のテンダーロコはテンダーを備えている機関車という意味で、英語や日本語などではタンク機である。独逸語でテンダー機はSchleptenderlokomotive (テンダーを引張る機関車)という。

また独逸語のStrecke(区間、路線)を英語でRailwayと訳している箇所もあり、英語だけを見ると判断を誤りそうだ。どんな国でも現地語(ここではチェコ語)での記述が一番充実し信頼できるであろうから、少しでもわかると良いのだが。歴史的経緯から独逸語での記述は英語よりは信頼できるだろう。

つづく

あまらぼ鍋屋町

2018年11月14日 (水)

トラムで暇潰し(プラハ)

鉄道以外の展示物もそれなりに面白かったが、博物館で一日居るわけにもいかないので、館内で昼食を摂った後は外に出てトラムで暇潰しとした。

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技術博物館の近くで、、、、後は「パドゥアのアントニア教会」
Kostel Sv. Antonína Paduánskéhoである。

街中の中心で撮影したり乗ったりした後、ヴルタヴァ川Vltava沿いに少し南に行ってみた。日本ではモルダウMoldauの方が馴染みがあり、私もそうだ。しかしこれは独逸語名、およびそれに基づく英語名である。
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夕方に街の中心に戻った。カレル橋
Karlův mostの袂である。

カレル、如何にもチェコの男の名前、カレル・チャペック、山椒魚戦争と連想が働いてしまうが、15世紀にできた橋と、兄がナチの強制収容所で亡くなった20世紀の作家とは当然ながら関係が無い。こちらのカレルは神聖ローマ帝国カルル四世に因む。英語ではCharles Bridgeとなってしまう。東京辯で言うところの「なんだかなあ」であろうか?たしかにそう書くしかないのだが、、、、*
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カレル橋の上にも行ってみたが大混雑、半分と言わないが三分の一くらいは某Z国**の声の大きい(失礼、、、よくとおる声の、、、)観光客であった。中欧に来た感じがしない。スメタナがこの情景を見たら京劇に想を得た曲でも書くだろうか。彫刻その他見どころがあるのだが、阿呆らしくなってさっさと宿に戻ってしまった。

<蛇足>

*:ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世というと重々しく、信徒でなくともアリガターイという感がするが、英語ではPope John Paul II(ポウプ・ジョン・ポール・ザ・セカンド)となる。なんだかポップ歌手の兄ちゃんみたいだ。如何にも鍋屋町が言いそうなイチャモンであるが残念ながら鍋屋町のオリジナルではない。どこかで読んだのだが出典を探しだせない。

ちなみにヨハネ・パウロ二世はポーランド出身で、空飛ぶ教皇と呼ばれるほど各国を訪問し、旧共産国の自由化・民主化に影響を及ぼした。現在ポーランドなどの旧共産国で蒸機撮影ができるようになったことの数十分の一くらいは-そんなことは意図していなかっただろうが-彼のお蔭と言えるかもしれない。

**:正確に言えは人口の9割以上を占める族である。

プラハのトラムも地面を這う巨大芋虫(=低床車)が跋扈していて、乗るには良いが撮影は結構効率が悪かったことを附記しておく。



あまらぼ鍋屋町

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